15.2015
『ハリウッド式脚本術』 ベイマックスから見るシナリオメソッド

カリフォルニア州ロサンゼルスに築かれた映画の都・ハリウッド。
ハリウッド映画をよくご覧になる方ならば、そのストーリーの展開の根底に、何か共通する「骨格」の様なものを感じられるかもしれません。
映画において骨格は「脚本」です。
ポピュラーミュージックに「1番:イントロ→Aメロ→Bメロ→サビ→間奏、2番:Aメロ……」などの構成があるように、ハリウッド映画の脚本にも共通した構成があります。
今回の記事では、世界ではじめて映画脚本を分析し、基礎を整備して、構成のパラダイムを提示したシド・フィールドという人物の著書から、その脚本術を学びたいと思います。
シド・フィールド(Syd Field,1935‐2013)は脚本家というよりも、脚本術の指導者として高い評価を得た人物です。
20世紀フォックス、ディズニー・スタジオ、ユニバーサル・ピクチャーズ、トライスター・ピクチャーズなどで脚本コンサルタントを歴任。全米脚本家協会で初となる殿堂入りを果たしました。
この記事で取り上げる『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(フィルムアート社、2009年、原題:Screenplay)は、1979年に刊行されて以来、22か国で翻訳され、全米400以上のスクールで教科書として使用されています。
「脚本家の導師」と称される彼の影響力の強さは、その門下生を列記すれば一目瞭然です。『ショーシャンクの空に』監督・脚本のフランク・ダラボン、『ターミネーター1・2』『タイタニック』『アバター』監督・脚本のジェームズ・キャメロン、『羊たちの沈黙』の脚本家テッド・タリー、『ゼロ・グラビティ』の監督・脚本で2013年アカデミー賞を受賞したアルフォンソ・キュアロンなど、数え上げたらきりがないほど多くの映画人がシド・フィールドのシナリオメソッドを学んでいます。
シド・フィールドの脚本術に入る前に、あらかじめ断っておくことは、このようなメソッドを学んだからと言って、必ずしも面白い脚本が書けるわけではないということです。
料理の作り方を学んだとしても、調具を揃え、素材を選び、一つ一つ調理し、食器に盛り付けていくのはあくまで自分自身の腕であり、できあがった料理のおいしさは様々な要素の総体で判断されます。
方法(メソッド)だけで、誰でもおいしい料理を作れるわけではありません。
またこの方法は、ハリウッド映画に顕著にみられる方法であり、アート系映画のような場合は、必ずしも効果を発揮するとは限りません。
ただ一つ言えることは、「つまらない」映画は、大抵このメソッドから外れているということです。
味付けの基本やコツを学んでいるのといないのとでは、その仕上がりに差が生じるのと同じように、ハリウッド式脚本術を学ぶことは、面白い映画を書くための一つの軸になるかもしれません。
なによりも本著は実用書であり、個人的には映画脚本に限らず「物語(ストーリー)」であれば、応用が利く技術もたくさん含まれているように思っています。
前置きが長くなりましたので、さっそく本題に入りましょう。
■映画脚本の三幕構成
図1
シド・フィールドは、アリストテレスが提唱した三幕構成を引合いにだし、あらゆるストーリーが持つ共通点に「発端」「中盤」「結末」の三つの構成(図1)があることを指摘します。これは「起承転結」や「序破急」に似たものだと思ってください。
青色の矢印は「ストーリーライン」のことで、時間軸ではありません。バラバラの時間軸で進む映画でも、この構造を当てはめることができます。
映画の尺は多くの場合、2時間前後となります。脚本の1ページはスクリーン上の約1分であり、ページ配分を「発端:p.1-30」「中盤:p.30-90」「結末:p.90-120」と振り分けています。この構成が本著の要です。
・第一幕(発端)
第一幕では、「ストーリーを立てて、キャラクターを設定し、ドラマ上の前提を示す。そして、状況を説明し、主要キャラクターとその他のキャラクターとの関係を設定する」、中でも「最初の10ページが脚本上最も重要な部分」とされています。
これは一体どういうことなのか、本著では様々な映画が事例として挙げられていますが、せっかくなので最近爆発的にヒットした『ベイマックス』に理論を応用して考えてみたいと思います。(ちなみにこの映画脚本は、20人の脚本家がチームを組んで練りに練った彫心鏤骨の出来になっています)
『ベイマックス』の冒頭は、14歳の主人公がイリーガル(非合法)なロボットバトルに参加するところからはじまります。この短いシークエンスだけで、全体が「ロボットバトル映画」であることが暗示され、主人公の高度な工学的スキルはもとより、内に秘めた血気盛んな性格、大金を稼いでいること(なぜあんなに多くのコンピューターを自宅に保持できるのか伏線になっている)、さらに無知な子供らしさを「演じる」知性など、非常に多くの情報が「映像」だけで伝わるように書かれています。
ロボットバトルで負けた大人の相手が、腕力で主人公をねじ伏せようとした瞬間、主人公の兄が颯爽とバイクで登場し、主人公を後ろに乗せて危機から逃れる。その後、家に辿りつくと叔母さんが迎えてくれる。このときの会話から、すでに両親とは死別していて、主人公の肉親は兄しかいないことが分かる。明くる日には兄に導かれて大学の研究室に行き、後に仲間になるメンバーと出会い、ベイマックスに触れ、後に敵となる教授とも顔を合わせる。
一つ一つの場面に詰め込まれた情報量の多さと、その手際の良さは見事としか言いようがありません。
この間、およそ10分くらいだと思われますが、ほぼ完璧に過不足なく「キャラクター」「ドラマの前提」が描かれています。
次に第一幕の最後に派生する図1の赤色の「プロットポイント①」について注目してみましょう。
・プロットポイント
プロットポイントは、「ストーリーを前に転がす役目」を担っています。脚本のパラダイムを保つ「節」であり、ストーリーラインの「錨」でもあります。プロットポイントは一つの映画に大体10~15個あるとされていますが、その中でも最初に考えておかなければならない、とりわけ重要なのがプロットポイント①と②です。これは「主要人物によって引き起こされ、アクションを駆動しつつ、ひねりを加えて違う方向性を与え」ます。それによって一段上の段階にストーリーを進め、解決へと向かっていくのです。
「脚本とは、普通、キイ(鍵)となる事件を綴るものであり、ストーリーは、その事件に対する登場人物のアクションとリアクションによって展開する。《中略》その“事件”こそ、ストーリーをゴールへと動かす原動力なのだ」
プロットポイント①はベイマックスで見ると、「兄の死」とそれに続く「ベイマックスとの再会」です。そしてベイマックスが主人公を外の世界へ連れ出すことで、ストーリーは次の段階へ進み、第二幕の「葛藤」へと入っていきます。プロットポイント①こそは「ストーリーの本当のはじまり」なのです。
ベイマックスの第一幕を通して見ると「本当のヒーローとは何か?」「テクノロジーはどうあるべきか?」というテーマが浮かび上がってきますが、こうした第一幕に関する最も大切なルールとして、次の6点が挙げられています。
1. 動きの中でストーリーを運んでいるか?
2. 登場人物が明確に紹介されているか?
3. ドラマ上の前提が設定されているか?
4. 状況を作り上げているか?
5. 登場人物が直面し、乗り越える障害を作っているか?
6. 登場人物の“ドラマ上の欲求”が何かを、述べているか?
・第二幕(中盤)
中盤にあたる第二幕には、約60ページ(60分)があてられます。ここで「脚本の中で、達成しなければならない目標の前に立ちはだかる障害と対決」しなければなりません。一言でまとめると「葛藤」が描かれるのが第二幕です。『ベイマックス』で言えば「自らが生み出したテクノロジーの暴走」であり、これと「対決」する様子が描かれます。シド・フィールドは本著の中で次の文言を繰り返し述べています。
すべてのドラマは葛藤である。
葛藤なしでは、アクションは生まれない。
アクションがなければ、キャラクターを作ることができない。
キャラクターなしでは、ストーリーは生まれない。
ストーリーがなければ、脚本は存在しない。
主人公が「葛藤」「対立」「障害」と向き合う第二幕の最後には、プロットポイント②が用意されています。これによってストーリーは駆動され、第三幕の結末へとなだれ込んでいきます。プロットポイントは脚本上不可欠な目的を持っていますが、何か劇的なシーンやシークエンスが必要なわけではありません。『ベイマックス』では、ベイマックスの中に保存されていた「兄(の映像)との再会」という静かなシークエンスがこのポイントに相当します。ここで兄はマスター(賢者)として登場し、主人公に「真のヒーローとは何か」を暗示するのです。主人公はそれに気づき、ストーリーの解決に向かって飛び立ちます。
・第三幕(結末)
第三幕は脚本の終わり、つまり解決です。主人公は生きるのか死ぬのか、成功するのか失敗するのか、勝つのか負けるのか、ストーリーの答えを出します。
ここで一つ付け加えておくと、それぞれの幕の中にも入れ子状に「発端」「中盤」「結末」があります。それらの幕がストーリーライン上で一つに連なったものが、すなわち脚本なのです。
ここまで見てきて全体の構成は浮かび上がりましたが、その上で、どこから手を付ければよいのか、シド・フィールドは次のような順番で考えるべきだと述べています。
1.エンディング
2.オープニング
3.プロットポイント①
4.プロットポイント②
映画の脚本はまずエンディングから考えなければなりません。「エンディングを想定せずに脚本を書き始めてはならない。覚えておかなければならない最も重要なことは、エンディングはオープニングから生まれる、ということである」
『ベイマックス』で考えると、エンディングは「ヒーローの誕生」です。そうであれば、オープニングはできるだけヒーロー像から遠ざけなければならない。友達もおらず、非合法なことをやって、己の満足をみたしているが、どこかに虚しさを感じている。オープニングで兄は主人公の変革を促して導くが、プロットポイント①で「事件」が起こり……こうして主人公(ストーリー)はエンディングへ向かって葛藤しながら進んでいきます。結末から「逆算」して考えることで、どのように「葛藤」を作り出せばよいのかが明確になります。
このエンディングを考えるにあたって、一つのコツが提示されています。それは「あなた自身が見たいエンディングはどういうものか?」というものです。単純すぎる、平凡すぎる、幸せすぎる、悲しすぎるなど客観的にいろいろ考えてしまいますが、自分が見たいものを書くことが最もモチベーションが上がることは言うまでもなく、そのエンディングにたどり着くまでが映画なので、自分の胸に相談するのが一番なのかもしれません。
■映像でストーリーを語る

シド・フィールドは本の冒頭で「脚本は技術であり、芸術である」と宣言した後、非常に大切なことを述べています。
「映画は基本的なストーリーをドラマにする視覚的な媒体である。映像と音で語るのである」
映画脚本とは、映像と音で語られるストーリーです。ここが小説や戯曲と最も異なる点でしょう。「映像で語る」ことの醍醐味を与えるためには、できるだけ言葉による説明は省き、映像で伝える工夫を凝らさなければなりません。特に映画のテーマや訴えたいことを「言葉」で説明されてしまうと興ざめしてしまいます。
『ベイマックス』ではこの点もよく意識されています。ベイマックスと初めて空を飛び回り、地上から遥か高みに昇った風力発電機の上に腰をおろし、美しく輝く夕日を眺めるシーン。夕日に染まった空のもと、風に撫でられ、何も言わずに気持ちよさそうにベイマックスと寄り添って眺める。この涙がこみ上げてきそうな映像の内に、ディズニーが訴える「テクノロジーの未来」が凝集しています。ここで一言でも言葉が入ってしまうと、過剰な説明になってしまう。言葉を用いず、「映像で語る」ことのお手本となるようなシーンです。
その他にも「シークエンスは、“発端”“中盤”“結末”を備えたシーンの集合体である」などさまざまなノウハウやコツが語られていますが、挙げだすときりがないので、脚本を書くにあたって大切な「魅力的な登場人物(キャラクター)を作るための四つの要素」だけ抜粋して終わりたいと思います。
1.登場人物は強力ではっきりした“ドラマ上の欲求”をもっていること。
2.その人独自の考え方、ものの見方をもっていること。
3.あるものに対する態度を体現していること。
4.何かしらの変化や変身を遂げること。
本著の中で面白いのは、膨大な数の映画の事例解説で、『市民ケーン』『チャイナタウン』『ワイルドバンチ』『氷の微笑』などの名作から、『パルプ・フィクション』『アメリカン・ビューティー』『マトリックス』『ラストサムライ』など比較的最近の事例も書き足されています。当記事ではそれらはお伝えできなかったので、もし関心のある方は手に取ってみてください。
実は今回の記事の前に『ベイマックス』の映画評を書いていたのですが、こうしたシナリオ論と神話学的な物語論が一緒になってしまい、非常に長くなったので別々に分けて載せることにしました。神話学的な物語論から見ると、ベイマックスは二つの類型的なモチーフが重なってできています。それまでのディズニー映画(『アナ雪』以前の作品)は、ひとつの神話構造を使いまわしていたため、ストーリー的な面白さが希薄でしたが、最近は物語を重ねることでストーリーに厚みを持たせているように思われます。そのようなことも含めて、次回以降「物語」を詳しく探っていきましょう!
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20世紀フォックス、ディズニー・スタジオ、ユニバーサル・ピクチャーズ、トライスター・ピクチャーズなどで脚本コンサルタントを歴任。全米脚本家協会で初となる殿堂入りを果たしました。
この記事で取り上げる『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(フィルムアート社、2009年、原題:Screenplay)は、1979年に刊行されて以来、22か国で翻訳され、全米400以上のスクールで教科書として使用されています。
「脚本家の導師」と称される彼の影響力の強さは、その門下生を列記すれば一目瞭然です。『ショーシャンクの空に』監督・脚本のフランク・ダラボン、『ターミネーター1・2』『タイタニック』『アバター』監督・脚本のジェームズ・キャメロン、『羊たちの沈黙』の脚本家テッド・タリー、『ゼロ・グラビティ』の監督・脚本で2013年アカデミー賞を受賞したアルフォンソ・キュアロンなど、数え上げたらきりがないほど多くの映画人がシド・フィールドのシナリオメソッドを学んでいます。
シド・フィールドの脚本術に入る前に、あらかじめ断っておくことは、このようなメソッドを学んだからと言って、必ずしも面白い脚本が書けるわけではないということです。
料理の作り方を学んだとしても、調具を揃え、素材を選び、一つ一つ調理し、食器に盛り付けていくのはあくまで自分自身の腕であり、できあがった料理のおいしさは様々な要素の総体で判断されます。
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またこの方法は、ハリウッド映画に顕著にみられる方法であり、アート系映画のような場合は、必ずしも効果を発揮するとは限りません。
ただ一つ言えることは、「つまらない」映画は、大抵このメソッドから外れているということです。
味付けの基本やコツを学んでいるのといないのとでは、その仕上がりに差が生じるのと同じように、ハリウッド式脚本術を学ぶことは、面白い映画を書くための一つの軸になるかもしれません。
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シド・フィールドは、アリストテレスが提唱した三幕構成を引合いにだし、あらゆるストーリーが持つ共通点に「発端」「中盤」「結末」の三つの構成(図1)があることを指摘します。これは「起承転結」や「序破急」に似たものだと思ってください。
青色の矢印は「ストーリーライン」のことで、時間軸ではありません。バラバラの時間軸で進む映画でも、この構造を当てはめることができます。
映画の尺は多くの場合、2時間前後となります。脚本の1ページはスクリーン上の約1分であり、ページ配分を「発端:p.1-30」「中盤:p.30-90」「結末:p.90-120」と振り分けています。この構成が本著の要です。
・第一幕(発端)
第一幕では、「ストーリーを立てて、キャラクターを設定し、ドラマ上の前提を示す。そして、状況を説明し、主要キャラクターとその他のキャラクターとの関係を設定する」、中でも「最初の10ページが脚本上最も重要な部分」とされています。
これは一体どういうことなのか、本著では様々な映画が事例として挙げられていますが、せっかくなので最近爆発的にヒットした『ベイマックス』に理論を応用して考えてみたいと思います。(ちなみにこの映画脚本は、20人の脚本家がチームを組んで練りに練った彫心鏤骨の出来になっています)
『ベイマックス』の冒頭は、14歳の主人公がイリーガル(非合法)なロボットバトルに参加するところからはじまります。この短いシークエンスだけで、全体が「ロボットバトル映画」であることが暗示され、主人公の高度な工学的スキルはもとより、内に秘めた血気盛んな性格、大金を稼いでいること(なぜあんなに多くのコンピューターを自宅に保持できるのか伏線になっている)、さらに無知な子供らしさを「演じる」知性など、非常に多くの情報が「映像」だけで伝わるように書かれています。
ロボットバトルで負けた大人の相手が、腕力で主人公をねじ伏せようとした瞬間、主人公の兄が颯爽とバイクで登場し、主人公を後ろに乗せて危機から逃れる。その後、家に辿りつくと叔母さんが迎えてくれる。このときの会話から、すでに両親とは死別していて、主人公の肉親は兄しかいないことが分かる。明くる日には兄に導かれて大学の研究室に行き、後に仲間になるメンバーと出会い、ベイマックスに触れ、後に敵となる教授とも顔を合わせる。
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この間、およそ10分くらいだと思われますが、ほぼ完璧に過不足なく「キャラクター」「ドラマの前提」が描かれています。
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・プロットポイント
プロットポイントは、「ストーリーを前に転がす役目」を担っています。脚本のパラダイムを保つ「節」であり、ストーリーラインの「錨」でもあります。プロットポイントは一つの映画に大体10~15個あるとされていますが、その中でも最初に考えておかなければならない、とりわけ重要なのがプロットポイント①と②です。これは「主要人物によって引き起こされ、アクションを駆動しつつ、ひねりを加えて違う方向性を与え」ます。それによって一段上の段階にストーリーを進め、解決へと向かっていくのです。
「脚本とは、普通、キイ(鍵)となる事件を綴るものであり、ストーリーは、その事件に対する登場人物のアクションとリアクションによって展開する。《中略》その“事件”こそ、ストーリーをゴールへと動かす原動力なのだ」
プロットポイント①はベイマックスで見ると、「兄の死」とそれに続く「ベイマックスとの再会」です。そしてベイマックスが主人公を外の世界へ連れ出すことで、ストーリーは次の段階へ進み、第二幕の「葛藤」へと入っていきます。プロットポイント①こそは「ストーリーの本当のはじまり」なのです。
ベイマックスの第一幕を通して見ると「本当のヒーローとは何か?」「テクノロジーはどうあるべきか?」というテーマが浮かび上がってきますが、こうした第一幕に関する最も大切なルールとして、次の6点が挙げられています。
1. 動きの中でストーリーを運んでいるか?
2. 登場人物が明確に紹介されているか?
3. ドラマ上の前提が設定されているか?
4. 状況を作り上げているか?
5. 登場人物が直面し、乗り越える障害を作っているか?
6. 登場人物の“ドラマ上の欲求”が何かを、述べているか?
・第二幕(中盤)
中盤にあたる第二幕には、約60ページ(60分)があてられます。ここで「脚本の中で、達成しなければならない目標の前に立ちはだかる障害と対決」しなければなりません。一言でまとめると「葛藤」が描かれるのが第二幕です。『ベイマックス』で言えば「自らが生み出したテクノロジーの暴走」であり、これと「対決」する様子が描かれます。シド・フィールドは本著の中で次の文言を繰り返し述べています。
すべてのドラマは葛藤である。
葛藤なしでは、アクションは生まれない。
アクションがなければ、キャラクターを作ることができない。
キャラクターなしでは、ストーリーは生まれない。
ストーリーがなければ、脚本は存在しない。
主人公が「葛藤」「対立」「障害」と向き合う第二幕の最後には、プロットポイント②が用意されています。これによってストーリーは駆動され、第三幕の結末へとなだれ込んでいきます。プロットポイントは脚本上不可欠な目的を持っていますが、何か劇的なシーンやシークエンスが必要なわけではありません。『ベイマックス』では、ベイマックスの中に保存されていた「兄(の映像)との再会」という静かなシークエンスがこのポイントに相当します。ここで兄はマスター(賢者)として登場し、主人公に「真のヒーローとは何か」を暗示するのです。主人公はそれに気づき、ストーリーの解決に向かって飛び立ちます。
・第三幕(結末)
第三幕は脚本の終わり、つまり解決です。主人公は生きるのか死ぬのか、成功するのか失敗するのか、勝つのか負けるのか、ストーリーの答えを出します。
ここで一つ付け加えておくと、それぞれの幕の中にも入れ子状に「発端」「中盤」「結末」があります。それらの幕がストーリーライン上で一つに連なったものが、すなわち脚本なのです。
ここまで見てきて全体の構成は浮かび上がりましたが、その上で、どこから手を付ければよいのか、シド・フィールドは次のような順番で考えるべきだと述べています。
1.エンディング
2.オープニング
3.プロットポイント①
4.プロットポイント②
映画の脚本はまずエンディングから考えなければなりません。「エンディングを想定せずに脚本を書き始めてはならない。覚えておかなければならない最も重要なことは、エンディングはオープニングから生まれる、ということである」
『ベイマックス』で考えると、エンディングは「ヒーローの誕生」です。そうであれば、オープニングはできるだけヒーロー像から遠ざけなければならない。友達もおらず、非合法なことをやって、己の満足をみたしているが、どこかに虚しさを感じている。オープニングで兄は主人公の変革を促して導くが、プロットポイント①で「事件」が起こり……こうして主人公(ストーリー)はエンディングへ向かって葛藤しながら進んでいきます。結末から「逆算」して考えることで、どのように「葛藤」を作り出せばよいのかが明確になります。
このエンディングを考えるにあたって、一つのコツが提示されています。それは「あなた自身が見たいエンディングはどういうものか?」というものです。単純すぎる、平凡すぎる、幸せすぎる、悲しすぎるなど客観的にいろいろ考えてしまいますが、自分が見たいものを書くことが最もモチベーションが上がることは言うまでもなく、そのエンディングにたどり着くまでが映画なので、自分の胸に相談するのが一番なのかもしれません。
■映像でストーリーを語る

シド・フィールドは本の冒頭で「脚本は技術であり、芸術である」と宣言した後、非常に大切なことを述べています。
「映画は基本的なストーリーをドラマにする視覚的な媒体である。映像と音で語るのである」
映画脚本とは、映像と音で語られるストーリーです。ここが小説や戯曲と最も異なる点でしょう。「映像で語る」ことの醍醐味を与えるためには、できるだけ言葉による説明は省き、映像で伝える工夫を凝らさなければなりません。特に映画のテーマや訴えたいことを「言葉」で説明されてしまうと興ざめしてしまいます。
『ベイマックス』ではこの点もよく意識されています。ベイマックスと初めて空を飛び回り、地上から遥か高みに昇った風力発電機の上に腰をおろし、美しく輝く夕日を眺めるシーン。夕日に染まった空のもと、風に撫でられ、何も言わずに気持ちよさそうにベイマックスと寄り添って眺める。この涙がこみ上げてきそうな映像の内に、ディズニーが訴える「テクノロジーの未来」が凝集しています。ここで一言でも言葉が入ってしまうと、過剰な説明になってしまう。言葉を用いず、「映像で語る」ことのお手本となるようなシーンです。
その他にも「シークエンスは、“発端”“中盤”“結末”を備えたシーンの集合体である」などさまざまなノウハウやコツが語られていますが、挙げだすときりがないので、脚本を書くにあたって大切な「魅力的な登場人物(キャラクター)を作るための四つの要素」だけ抜粋して終わりたいと思います。
1.登場人物は強力ではっきりした“ドラマ上の欲求”をもっていること。
2.その人独自の考え方、ものの見方をもっていること。
3.あるものに対する態度を体現していること。
4.何かしらの変化や変身を遂げること。
本著の中で面白いのは、膨大な数の映画の事例解説で、『市民ケーン』『チャイナタウン』『ワイルドバンチ』『氷の微笑』などの名作から、『パルプ・フィクション』『アメリカン・ビューティー』『マトリックス』『ラストサムライ』など比較的最近の事例も書き足されています。当記事ではそれらはお伝えできなかったので、もし関心のある方は手に取ってみてください。
実は今回の記事の前に『ベイマックス』の映画評を書いていたのですが、こうしたシナリオ論と神話学的な物語論が一緒になってしまい、非常に長くなったので別々に分けて載せることにしました。神話学的な物語論から見ると、ベイマックスは二つの類型的なモチーフが重なってできています。それまでのディズニー映画(『アナ雪』以前の作品)は、ひとつの神話構造を使いまわしていたため、ストーリー的な面白さが希薄でしたが、最近は物語を重ねることでストーリーに厚みを持たせているように思われます。そのようなことも含めて、次回以降「物語」を詳しく探っていきましょう!
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