25.2012
今道友信『美について』 光の種を植えた人

2012年10月13日、美学者・哲学者・中世哲学研究家の今道友信氏(1922-2012)が永眠されました。
「美学」を奉じる日本人で知らぬものはいない巨星であり、現代美学の国際的な権威として長らくご活躍されてきました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
ちょうど今道氏が著した『美について』の記事を書こうと思っていた矢先の訃報でした。
この本の中で、藝術の「藝」という字の原意は「種を植える」ことであり、人間の精神において内的に成長していく、ある価値体験を植えつける技を意味すると述べられた箇所があります。
私淑したままついにお会いすることはありませんでしたが、その種は本書にも確かに宿っているように思えます。

『美について』は、その名の通り美を論じた本であり、美学の入門書であるばかりか、今道氏の哲学に貫かれた倫理書でもあります。
1973年に刊行された本書は、すでに名著として広く知られていますが、今後はおそらく古典と呼ばれることになるでしょう。
単に美学の文脈を追った概説ではなく、古今東西の美及び哲学を通じて、人間存在の高みに到達しようとする精神の曳行が描かれています。
真善美から始まり、「美のみは、どんな人にも、それなりの美的感動として充実した姿で体験され、しかも、その契機は日常生活の随所に見いだされる」として美の優位性を説き、「真が存在の意味であり、善が存在の機能であるとすれば、美は、かくて、存在の恵みないし愛なのではなかろうか」との前提に立って論が展開されます。
注意深い読者であれば、開始数ページの何気ない導入の中に、すでにプラトンとヘーゲルの美学が織り込まれ、独自の思想で綾なされていることに気付くでしょう。
それは、ゲーテをして「完全な人間」と言わしめ、ひたすら美しく生き、美しく死ぬことを目指した古代ギリシア人に範を取り、その偉大な理念を連綿と辿り、美の本質を発見する旅路なのです。
美学に触れたことがない方であれば、読み終えた後、長い旅から帰って来たような、精神の心地よい疲労と成長を感じるかもしれません。
ただの入門書・学術書ではなく、倫理書と記した理由はここにあります。
それは人格の向上を促すものなのです。
白眉は、一章「美の発見」と二章「美の理解」です。
ここでは、美術作品に込められた美の実相を見極めるための“方法論”が、様々な具体例や引用に紐付けられて演繹的に展開されます。
知覚・感覚に頼った解釈や分析ばかりの解釈は本当の解釈ではなく、知性的な操作は必須であるとしながらも、分析と美の発見との道は別であり、分析の結果、必要なものを統合し、組み立て、作品を介してそれが指し示す美に向かって精神が登高すること、この運動こそが解釈であると述べます。
そして次のように続けるのです。
「普遍的な記号に分析しつくした後、その普遍者によって、いわば武装してもう一度感覚の現実に立ち返ってこなければならない。安易な言い方になるけれども、このように特殊な感覚的な所与と、分析的な普遍者との弁証法的総合として、さらに、芸術体験の十分条件として作品とのより高次な対話の場面という理性活動が形成されてこなければならない……これは結局、作品が秘めている体験及び価値展望と、自己の体験によって深められている私との対話ということができよう。換言すれば、作品は体験の浅い人にはその深さを示さないということになる。体験の深浅は決して事実体験として自己が経験したか否かという直接性の問題ではなく、意識がとらえるものをわれわれがどれほど深く理解するか否かということにかかっている」
今道氏が使う「理性」という言葉は、通常一般のそれとは異なり、カントを引き合いに出して「科学の分析的な知性の主体を悟性と呼び、神や世界や人間について思弁する知性の主体を理性」と呼びます。
こうした理性による対話は、構造的な分析法が大手を振るう現代にあって、非常に重要な方法論と言えるでしょう。
読者の中には、自然美についてあまり触れられていないことに不満をもたれる方もいるかもしれませんが、本書が動植物が持ちえない人格・倫理と分かちがたく結びついていることを考えると、ひとまず自然は脇において考えるのが正解かと思われます。
自然を脇に置くのは、西洋哲学の基本的な姿勢の一つですが、だからといって今道氏が自然に対する考察をおろそかにされていたわけではありません。
生圏倫理学入門『エコエティカ』の中には、人間と自然の関わりについて随所に言及されています。
『美について』と併せて読むことで、今道氏の提唱する真善美の理念が、より立体的に浮かび上がってくるでしょう。
言葉を生業としている者から見れば、小説であれ、論文であれ、はたまた説明書であれ、文章そのものの美がなければ、どれほど内容が充実していようとも、決して高い評価を下すことは出来ません。
うねり流れる知性だけではなく、その底に煌めく詩情も、本書の大きな特徴を成しています。
水墨画を例に、理性と自然美の関係性について述べた文章からも、それを伺い知ることができます。
「幼児が水墨画に惹かれるということがあろうか。それは現代の普通の都市生活者の家庭ではまず考えられないことである。一木一草が天地の生命の象徴であるということを理解し、しかも、日常の体験によって、緑の色などは四六時中のわずか日の光の射しているときだけの色のすぎない仮象の状態であるということを十分に理解し、物の真相はけっして現象の再現では捉えられないというようなことも理解しうるほどに逞しく成長した知性が十分深く働き出したときに、人ははじめて、華美な色彩を持たない、そしてまたわずか一葉の竹の葉しか書かれていないような水墨画においてこそ、本質の世界が拓かれるのを感じ、天地にあまねく悠久の生命を看取し、人間の一生の短さと大自然の永遠の躍動を体得するにいたる。こういう心構えが知性的にできあがっていなければ、水墨画の鑑賞をすることは出来ない」
該博な知性に基づく分析、精妙な感性に基く解釈、そして深い世界の理解に基づく詩情、これらが見事なバランスで組み合わされることで、読み手は真善美の階梯を確かな足取りで登ることができます。
批評の中には、真善美という古典性から脱け出せないとの意見もあるようですが、ここで改めて問い直したい。
真善美以上の特質が、果たして人間にあるだろうかと。
少なくとも私は、これ以上の徳目をいまだに見出せていません。
人類の指標となり、強い意志をもって実現し、世代を超えて継承するべきもの。
それこそが真善美であり、この三つのプリズムが重なり合ったとき、ついに美は最高度に結晶し、一切の価値の頂点に君臨するのです。
暗く苛酷な生の只中にあって、それはなんと輝いていることか。
真善美の輝きに憧れ、それを追い求めることを“愛”の昇華と見なしたのは、まさしくプラトンでした。
かかる意味において美は、私たちに立ち上がる力を与えるのです。
これはかなり抽象的な言い方になってしまいますが、本書からひしひしと感じるのは、著者の人間としての大きさです。
読み進めていくと、まるで『神曲』の主人公ダンテを庇護する詩人ウェルギリウスのように、美という天上へ登攀する導き手として、全幅の信頼を寄せるに足る安心感があります。
それは真善美という礎の揺るぎなさであり、その上に立つ著者の高潔な人格が、文章と行間に滲み出ているからでしょう。
このような人を教育者に持ったということは、国家として幸福なことのように思えます。
洋の東西問わず、偉大な人間に対し、「星」と呼びならわすのは、一体なぜでしょうか。
それは、一つの人格が人類の輝かしい側面を代表し、人々にとって規範であり、目標ともなる、ある高みに存すると感じるからに他なりません。
真善美の「輝き」こそは、美の実相です。
究極の形では、美は真善美を包含し、またそれらを超え出る「光」なのです。
寄る辺なき夜の波頭を照らす小さな光。
美を知ることが一つの対話であり、自らの内面と照応関係にあるならば、漆黒の天蓋にまたたく星々は、私たちの精神の深淵に生じる光の反映なのかもしれません。
生涯にわたってその光を探究し、その種を植え続けた氏の一生は、まさしく自身が指し示すところの“美”に到達したのではないでしょうか。
少し長くなりますが、巻末の文章を抜粋し、この拙い弔辞を結びたいと思います。
「美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であると言わねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。この輝きは、単に義務を履行して、他人から批難されない行ないの正しさ、自己を失うことなしに、道徳的に模範となっている善の落度のなさとは異なって、積極的な光となってひとびとの心に明るい灯となるものではあるまいか。われわれは、義の人を賞讃し、善の人を賛嘆することはできる。しかし、それらの 賞讃や賛嘆がわれわれを動かすであろうか。われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚(よ)ぶ……始めに私は、美は存在の恵みであると書いたが、長い考察の後に行為の美を讃えてあの初めの言葉と並んで、美は人生の希望であり、人格の光であると録(しる)さねばならない」
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16.2012
月眠ギャラリー企画『Box Art EXHIBITION|箱の中の詩学』 ボックスアート展覧会


月眠ギャラリー企画展「Box Art EXHIBITION|箱の中の詩学」が開催されます。
黒田武志/川島朗/中川ユウヰチ/マンタム/菊地拓史、5名の作家によるボックスアートの共演。
日程は10月16日~28日まで月眠ギャラリー(大阪)、その後パラボリカ・ビス(東京)に巡回します。
当研究所もキャッチコピー、記事の提供等でご協力しています。
当研究所の過去の記事で、ボックスアート(アッサンブラージュ)の先駆者ジョゼフ・コーネルを取り上げ、絵画でも彫刻でもなく、「箱」でなければならなかった理由について言及しました。
彼の箱は時間を区切るものであり、ガラクタを寄せ集め、積み上げ、貼り付け、結び付けることで、それらの物質に塗り込められた「意味」を解き放ち、存在そのものを無限性・神秘性へと還元させます。
無限の広がりをもつ「詩の世界」を封印するための箱。
このボックスアートを見るために、何か特別な教養は必要ありません。
私たちは誰もが身をもって体験しているからです。
幼少期の、完全に幸福だったあの世界こそ、まさしく「詩の世界」であったことを。
彼の箱は、もやは戻ることはできない「詩の世界」を、そっと覗くことのできる小さな窓なのです。
「箱の中の詩学」と題された本展覧会では、一つ一つの作品に5名の作家の世界が封じ込められています。
そのどれか、もしくはすべての箱の中に、私たちの原風景が映し出されているかもしれません。
Box Art EXHIBITION|箱の中の詩学
日程:2012年10月16日(火)~28日(日)
場所:月眠ギャラリー(大阪)
時間:13時00分~20時00分
休廊日:月曜日
入場料:500円
日程:2012年11月9日(金)~26日(月)
場所:パラボリカ・ビス(東京)
時間:13時00分~20時00分(土日:12:00~19:00)
休廊日:水曜日
入場料:500円
参加作家:
黒田 武志 Kuroda Takeshi
川島 朗 Kawashima Akira
中川 ユウヰチ Nakagawa Yuichi
マンタム Mantam
菊地 拓史 Kikuchi Tacji
企画:月眠ギャラリー
共催:パラボリカ・ビス/夜想
協力:日本美学研究所
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関連サイト
月眠ギャラリー企画展『Box Art EXHIBITION|箱の中の詩学』公式ページ
パラボリカビス(夜想 yaso & parabolica-bis)『Box Art EXHIBITION|箱の中の詩学』
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12.2012
映画『スケッチ・オブ・ミャーク』 われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか

近代に入り、非科学的なもの、不合理的なものは唾棄されました。
ニュートンを筆頭とする科学革命以降、科学技術は異例のスピードで進化を続け、その成果を系統的・累積的に活用することで生産力は飛躍的に向上し、環境コントロール技術は洗練され、延いては産業革命を果たします。
資本主義の成立は、いずれも科学技術の恩恵を受けた産業の変革なしには語れません。
この資本主義と国民国家によって近代化は推進します。
それはまさしく「理性」の時代の幕を開けであり、交通手段を発達させてあっという間に世界を覆い、非近代を駆逐し、新たな人類の幸福の指標となります。
人類に多大な恩恵をもたらした近代的理性。
それは神を捨ててなお余りある豊かさを与え、輝かしい未来を約束するものでした。
そのはずでした……
しかし結果はどうでしょう、結局理性が行き着いた先は、ヒロシマ・ナガサキの原爆であり、アウシュビッツだったのです。
それは現代においても引き継がれ、自らを滅ぼす兵器で互いに武装し、まばたきするたった一秒の間にテニスコート20面分の森林を奪い去る世界を作りました。
私たちは、どこかで道を間違えてしまったのではないでしょうか。
映画『スケッチ・オブ・ミャーク』には、こうした近代的理性に汚されぬ美しい世界が素描されています。
沖縄県宮古島(ミャーク)で歌い継がれる古謡と神歌にスポットを当てたドキュメンタリー『スケッチ・オブ・ミャーク』。
近年よく耳にするようになった沖縄民謡とは異なり、宮古の音楽は独自の響きを持っています。
その音に惹かれたミュージシャン・久保田麻琴氏が、継承者不足から失われようとしている現状を憂い、宮古の音楽の録音活動を続ける中、大西功一監督の賛同を得て本作が完成しました。
沖縄に関係したドキュメンタリーというと、彼らの辿ってきた歴史的受難を利用して、自らの政治思想のプロパガンダにあてる輩が少なくない中、本作はきっちり文化の継承と記録に焦点が絞られています。
記録映画としての価値を超え、普遍的な感動をもたらす作品に仕上がったのは、こうした製作者の誠実な姿勢によるところも大きいように思えます。
古来より民間祭祀と共に受け継がれてきた神歌。
薩摩藩支配による苛酷な重税下にあって歌い継いだ古謡・民謡。
この中から、まずは神歌について見てみましょう。
作中、元女性司祭者・ツカサ(ノロに相当する)の方たちが語る言葉は、非常に興味を引く内容です。
神歌を共に歌う神の声を聞き、御嶽で馬の姿をした神を見る。
ツカサの選定にくじ引きが用いられるは知っていましたが、かなり特殊なくじ引き方法であることは、今回の映画で初めて知りました。
すでに夢で自分が選ばれることを予知していたという元ツカサの方たちの証言には、夢をただの記憶整理の副産物と見なす脳科学の範疇を逸脱し、神の直接的な未来啓示と見なした古代宗教の片鱗を伺わせます。

古から沖縄では女性が神事をつかさどり、聖域である御嶽は関係者以外禁足地とされてきました。
現在でも多くの御嶽は男子禁制であり、その祭祀も秘祭として人の眼に触れることなく、神に捧げる神歌も当然表に出ることはありませんでした。
映画化するにあたって反対意見もあったそうですが、いずれにせよ、ひっそりと忘れ去られるよりも、聖域から飛び出して訴えることを選んだ。
それほど事態は逼迫しているということでしょう。
予告編にも映る白黒装束で草冠を被った祭祀は、おそらくウヤガン祭だと思われますが(本編にも何度か映像が出てきます)、この祖神祭も後継者難により断絶の危機を迎えていると聞きます。
神女たちが五日四晩にわたり聖林イズヌヤマに入って秘儀を務め、自らに神を降ろした後、村落に下り祓いの儀礼をおこない、再び御嶽に帰還する秘祭です。
民俗学では、祖霊神ウヤガンの降臨を儀礼的に再現することによって、村落の再生を図り、豊穣を祈願するものであると説明されています。
宮古独自の祭祀は他にも種々あります。
神と人との関係性が恒常的に保たれた汎神論的世界。
日常に根付いた祭祀が、現代の先進国日本において存続していること自体一つの驚異であり、はかり知れない価値を持っていると思われます。

Photo by 比嘉康雄『宮古島 狩俣 ウヤーン(ウヤガン)』1989年
一昔前には、男たちが海に出ると、100名を超える女たちが集まって夜を徹して祈り、その歌声は風に乗って数キロ隔たる近隣の村々にまで届いたそうです。
自然への深い畏れに基く祈り。
私たちがこうした祭祀に関心を払わなくなったのは、合理性・実理性の追求と、人間が自然をコントロールできるとする傲慢な考えに他なりません。
それが間違いであったことは、3.11を通過した多くの人たちが気付き始めています。
近代ヨーロッパの学者は、古いものは原始的で単純、無意味なものであり、時代が進むにつれて、複雑化・高度化するという考えを持っていましたが、まったくの逆です。
宗教儀式など、本当は深い意味が込められていたものが時代と共に意識されなくなり、忘れられて形骸だけが残り、そして無意味なものとして捨てられたのです。
こうした宗教儀礼は一度途絶えると二度と復元できず、宮古のように口伝の要素が強ければなおさらです。
伝える者だけでも、受け取る者だけでも成立しません。
“継承”するためには、伝える者と受け取る者の相互同時性が不可欠です。
もちろん神事である以上、人の意志だけで決定できるものではありませんが、本作を観て強い感銘を受けた方であれば、やはり存続してほしいと願うに違いありません
伝える者が一人また一人と世を去りつつある今、残された時間は多くはないでしょう。
1637年、薩摩藩の支配下にあった琉球王府によって、宮古島・八重山地方に厳しい「人頭税」が課せられ、不当な差別を受けるようになりました。
これは映画に出てくる話しではありませんが、与那国島の久部良バリという岩場には3mほどの幅を持つ深い裂け目があり、妊婦を飛び越えさせて体力の弱いものを人減らししていたというエピソードは、当時の税の苛酷さを物語っています。
1903年まで続いた「人頭税」をアメリカの黒人奴隷制度と重ね合せ、その歴史がブルースやブギにも似た宮古の音楽の形成に影響したとする本作の視点は秀逸です。
もちろん、強制連行による故郷喪失、外見的差異による人種差別など、ブルースとの相違点はあるものの、音楽家ならではの視点と、現代の若い世代にその価値を伝えようとする姿勢には共感を覚えます。
つまり、この歌を失うことは、苦しみの只中にあって人生を肯定し、逞しく、力強く生きようとした宮古の人々の、延いては人類にとっての、一つの偉大な足跡を失うことに等しい。
それを受け継ぐことができるのは、他でもない、宮古島という地のエレメントと結びついた人だけなのです。

サファイアの空。エメラルドグリーンの海。
陽に焼けた宮古の人々の生活を、慰撫し、守護し、寄り添い続けた音楽。
海を渡った彼女たちが、東京のコンサートホールに立つラストは素晴らしい。
自然の絶滅した東京において、大勢で歌い踊った往年の宮古の盛況が蘇ります。
涙は自然と頬を伝い、確信を抱く。
ここに人の幸福があり、決して失われてはならないものであると。
コンサートのあと、おばぁたちは東京タワーを見て「生まれた甲斐があった」と漏らします。
あなたたちの歌には、それ以上の価値があるのです。
繁栄を謳歌し、時代の最先端を走っていたベル・エポックのパリに背を向け、自然と共存するタヒチに楽園を見出したのは、印象派の巨匠ポール・ゴーギャンでした。
最後に掲載する絵画には、蒼い自然に彩られたタヒチへの讃嘆と、対極に位置する近代的理性の敗北が描かれています。
ゴーギャンの最高傑作であり、彼自身も「これ以上の絵は描けない」と述べた畢生の大作。
自殺を決意していた彼は、この絵を遺書の代わりに描き上げました。
絵に付された題名に思いを馳せつつ、筆をおきたいと思います。
また次回をお楽しみに。

ポール・ゴーギャン作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
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03.2012
『ティック・クアン・ドックの焼身供養』 仏教における自殺と普遍的意義

Photo by Malcolm Browne『Thích Quảng Đức(ティック・クアン・ドック)』
いやはや凄い世相になりました。
中国の船舶問題。
領土問題に端を発し、本当に乱世の様相を呈してきましたが、これはまだほんの序の口でしょう。
いよいよこれからが地獄の窯開き。
私たちが長年溜めこんだツケを支払う時が来たのかもしれません。
ここら辺であらためて当研究所の基本的スタンスをお伝えしたいと思います。
当研究所の理念は所長挨拶でも述べているように、「あらゆるカルチャーを横断しながら美の源泉を探り、広く世に伝播することで人類の文化活動に貢献すること」です。
“日本”という名称を冠していることから、我が国の美術にも積極的に焦点を当て、その本質を探りだし、延いてはその文化的価値を高めることも重要命題です。
こうした審美的な活動の性質上、当研究所は、いかなる政治活動にも関せず、いかなる政治組織にも与しません。
そうした瞬間、美は他のなにものかに隷属してしまうからです。
どのような束縛も禁圧も美にとっては敵です。
そして美は、常にそれを超え出て勝利するものだと信じています。
この考えは、命こそ最も大切だとする戦後日本の「生命至上主義」とは相いれない立場です。
何に最高の価値を置くのか。
美を至上の価値に据えるのなら、必然的に生命の価値はその下に位置します。
だからと言って、生命をないがしろにするわけではありません。
生命は貴(とうと)いことを前提としたうえで、なおそれ以上の価値を人間性の中に見出したいのです。

美の究極は、決して「美」という言葉では収まらないものだと思っています。
言語化不可能なものと知りつつ、ジョルジュ・バタイユは、それを「聖なるもの」と名付けました。
「聖なるもの」と接した時、人は忘我の内に沈黙するか、溜息、叫び、喘ぎ、呻き、これら意味をなさない感嘆詞だけしか洩らせません。
意味のある言葉が形成されるのは、感動と慄きが去った後のこと、「聖なるもの」が消え去った後にようよう言葉を紡ぐことができるのです。
「聖なるもの」は一瞬だけ現れ、決して持続しない。
それはまぎれもなく、人間が人間を超え出る瞬間に生起されるものなのです。
ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức,1897~1963)師の焼身自殺は、まさにこの「聖なるもの」を私たちに突きつけます。
ベトナム共和国初代大統領ゴ・ディン・ジエム(在任1955~1963)は熱烈なカトリック教徒でした。
政権獲得後、彼はカトリック中心主義を推進し、将校や官僚のトップにカトリック教徒を据え、さらに土地政策や税制面でもカトリックを優遇します。
1959年には、南ベトナムを聖母マリアに捧げることを宣言、カトリック教会が国で最大の地主となり、公的な催しにはバチカン国旗が掲揚されました。
人口の大半を占めていた仏教徒は、仏旗の掲揚を禁止され、活動の抑圧、宗教差別を受けるようになり、これに反発して反政府活動を開始。
1963年、ジエム政権は戒厳令を布告すると、各地の仏教寺院を襲撃して僧たちを連行します。
仏教への弾圧はヒートアップし、抗議した民衆が射殺されるまでになりました。
こうした最中、ベトナムの高僧ティック・クアン・ドック師は、自ら炎を纏うのです。

仏教というと何となく戒律が緩いイメージがあるかもしれませんが、ティック・クアン・ドック氏が属したベトナムの臨済宗における戒律は甚だ厳しく、僧であるからには妻帯肉食も不可です。(還俗することはいつでも可能です)
また仏教徒が守るべき五つの戒律「五戒」には、生き物の殺害を禁じる「不殺生戒」も含まれています。
こうした厳しい戒律にあって、なぜティック・クアン・ドック師は焼身自殺を敢行したのか、それは禁忌ではないのか。
法華経薬王菩薩本事品二十三に収められた薬王菩薩の故事にヒントがあります。
「即ち諸の香・栴檀・薫陸・兜楼婆・畢力迦・沈水・膠香を服し、又瞻蔔・諸の華香油を飲むこと千二百歳を満じ已って、香油を身に塗り、日月浄明徳仏の前に於て、天の宝衣を以て自ら身に纏い已って、諸の香油を潅ぎ、神通力の願を以て自ら身を燃して、光明遍く八十億恒河沙の世界を照す」
「其の中の諸仏、同時に讃めて言わく、善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名く。若し華・香・瓔珞・焼香・抹香・塗香・天繒・幡蓋及び海此岸の栴檀の香、是の如き等の種々の諸物を以て供養すとも、及ぶこと能わざる所なり。仮使国城・妻子をもって布施すとも、亦及ばざる所なり。善男子、是れを第一の施と名く。諸の施の中に於て最尊最上なり、法を以て諸の如来を供養するが故にと」
要約:薬王菩薩の前世である一切衆生憙見菩薩は、仏を供養するために香を飲み、宝衣にも香油を注いで身にまとい、自らを焼身して遍(あまね)く世界を照らした。諸仏はそれを褒めえ讃え、「これが真の精進であり、如来を供養する真の法である」と言った。仮に城や王妃・王子を布施しようとも及ぶものではない。これこそ第一の布施であり、最も尊い方法だ。それは「法」による供養なのだ。

重要文化財『薬王菩薩立像』(1202)奈良・興福寺蔵
仏教徒の焼身自殺はこの薬王菩薩の故事に基いてなされ、歴史的に見ても複数の例があり、いずれも禁忌とはみなされませんでした。
日本における焼身供養の最古の例は紀伊熊野那智山の僧、応照とされています。
ティック・クアン・ドック師の焼身も同様の故事に基くことに疑いの余地はありません。
それは厳然たる宗教行為であり、政治行為とみなすのは誤りです。
焼身自殺は英語で「Self-immolation(生贄)」と綴られます。
己を犠牲として神仏に捧げるという“絶対的な帰依”そのものの内に、仏教弾圧への批判が含まれているのです。
冒頭に掲げた写真はその瞬間を切り取ったもので、世界報道写真コンテストでグランプリを受賞しました。
仏典には焼身供養のみならず、その他いくつか自決に関する故事があります。
例えば、釈迦の前世である薩埵王子が、崖下の餓えた虎の親子を憐れみ、崖から飛び降りてその身を虎に与える捨身飼虎(しゃしんしこ)と呼ばれる『金光明経』の故事や、一時的な悟りを6回繰り返したゴーディカが、7回目の悟りに至って自決し、永遠の悟りを啓いた『雑阿含経』の故事など。
仏教における自決は、徹頭徹尾禁止されているわけではなく、利他的な動機に基いていたり、悟りを真摯に追い求めた結果など、動機や結果によっては讃えられるケースもあるようです。
その他の自死については、盲目の亀が流木の穴に入ることが極めて稀なように、人間として生まれてくることは貴重なことなので、自ら命を断てば来世はより苦しい状況で生まれてくるという内容が『雑阿含経』に記されています。(四字熟語の「盲亀浮木」はこの故事から来ています)
言うまでもありませんが、焼身にしろ他の方法にしろ、宗派によって解釈は異なり、誰にでも当てはまるものではなく、また自殺を肯定するものではないことをご理解ください。

作者不明『捨身飼虎図』法隆寺蔵
己の命はかけがえのない貴重なものです。
それは考えるまでもなく、本能的に誰もが分かっていることです。
にもかかわらず、生命至上主義者の「命が一番大事! 死ぬヤツは馬鹿!」という言葉には、なぜ卑しさが付きまとうのか、「お金が一番大事!」という言葉を聞いたときと同じような、何か下卑たもの感じるのは一体なぜなのか。
私たちは、おそらく知っているのです。
お金よりも、そして命よりも、貴重なものが存在しうることを。
かけがえのない己の命よりも、さらに尊いものがあることを。
しかし、それを証明するためには、自らの命を賭けなければならない。
これは一種の英雄的行為であり、誰にでもできることではないでしょう。
この英雄的行為が自分にはできないことを知りつつ、それを肯定するために己の命を擲った者を否定して嘲笑する、だからこそ生命至上主義者の言葉には卑しさが拭えないのです。
命を賭ける機会は一生の間に一度も訪れないかもしれませんが、覚悟だけは持っていなければならない。
自分にその覚悟ないからといって、過去に誰かが命を賭けて守ろうとしたものの価値を貶め、その身を挺した行為を嘲笑うことは、醜いと言わざるをえません。
ジエム大統領の義妹マダム・ヌーはティック・クアン・ドック師の焼身を「ただの人間バーベキュー」だと述べて批判を浴びました。
皆さんにはどのように見えるでしょうか。
ちなみに、ティック・クアン・ドック師が命を絶った同じ年に、ジエム大統領はクーデターにより射殺され、マダム・ヌー夫妻は国外に亡命しています。

焼身自殺は自殺の中でも極めて苦しみを伴う方法として知られています。
体液は沸騰し、睾丸は爛壊し、膨張した眼球は破裂します。
何よりも肺と気管が焼かれて呼吸ができない。
通常であれば、走り回り、転げ回り、雄叫びを上げるはずです。
それにもかかわらずティック・クアン・ドック師は結跏趺坐のまま不動を貫く。
身じろぎひとつせず、一言も発せず、叫びはおろか微かな呻きすら洩らしません。
完全なる静謐の中でその身を刻々と供するのです。
あまりに現実離れした光景。
全身を包む火炎は、さながら如来の光背のごとくに燃え上がり、その周囲を遍く照らし、師を取り囲む僧たちは額(ぬか)ずき……
最後にお見せする映像には、まぎれもなく言語化不可能な「聖なるもの」が捉えられています。
誰をも傷つけず、ただ己一人の命をもって犠牲に供す、その一部始終を収めた稀有なフィルムと言えるでしょう。
焼身という極限状態にあって不動と沈黙を貫いたことで、仏教の至上の精神性までも体現しているように思えます。
かけがえのない命を捧げる。
だからこそ犠牲は貴く、貴いからこそ神聖なのです。
記事に掲載した写真を見れば、ティック・クアン・ドック師がベトナム国内でどれほどの尊崇を受けているかが分かります。
一点明記しておかなければならないことは、現在、チベット及びチベット僧に対する弾圧・虐殺・人権侵害がベトナムとは別の形で問題化しているということです。
この問題は、おそらく私たちが直面している問題と同一線上のものでしょう。
人間がなしうる行為の一つの究極に位置する師の焼身が、あらゆる弾圧から仏法を守護し、延いては衆生の苦しみを解放するもであるならば、状況は違えども普遍的な意味を持つはずです。
その願いを込めて。
※当記事は自殺を助長するものではありません。危険ですので映像のマネはしないで下さい。
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