15.2012
ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』 聖書のナラトロジー(物語論)による解析

9月9日、「ジョルジュ・バタイユ降霊祭」が無事に執行されました。
満員御礼。
ご来場くださった皆様には心より感謝申し上げます。
没後50周年記念にして、翌日9/10がバタイユの誕生日という、生と死の狭間に設けられた束の間の祝祭。
非常に刺激に満ちたイベントで、大岡淳氏演出による江戸糸あやつり人形座公演『マダム・エドワルダ』(2013年3月開幕)の期待が俄然高まる内容でした。
原作の短編小説『マダム・エドワルダ』は、ジョルジュ・バタイユがピエール・アンジェリックの筆名で執筆し、1941年に地下出版されました。
一見するとポルノまがいの小説ですが、巷間で言われるような性の称賛でもなければ、背徳の書でもありません。
本書はエロティシズムを通じて「ある裂け目」へと読者を開かせることを目的としています。
冗漫な部分を一切排除した、おそろしく硬質な短編小説です。
読み飛ばしていいセンテンスは一つもありません。
一言一句、最初から最後まで丁寧にたどらなければ、この小説に込められた呪力は作用しないように書かれています。
「小説」という観点で見るなら、バタイユの最高傑作と言っていいのではないでしょうか。
難解な作品として知られ、ネットで本書の評論を見て回っても的確な解説は皆無に等しいのですが、バタイユ自ら重要作に位置付けていることからも、そのまま投げ捨ててしまってはもったいない。
少しでも理解の助けになるように、今回の記事では『マダム・エドワルダ』を聖書のナラトロジー(物語論)に当てはめて考えてみたいと思います。
「ジョルジュ・バタイユ降霊祭」に来られた方にとっては、さらに理解が深まる内容になるかもしれません。
引用は『マダム・エドワルダ』中条省平訳(光文社古典新訳文庫)から行います。

降霊祭の第2部コロックで、当方は聖書の重要な概念として「原罪・贖罪・救済」の3点を取り上げ「聖書は原罪から発して、キリストの贖罪を媒介とし、再び神に帰り着く物語」であるとプレゼンしました。
これはナラトロジーの観点から見ると次のような3段階にまとめられます。
①原罪(追放・失楽園)=セパレート(分離)
②贖罪(迫害)=イニシエーション(放浪・通過儀礼)
③救済(復活)=リターン(帰還)
セパレート、イニシエーション、リターンは聖書のいたるところ(モーセ視点、イスラエル人視点、キリスト視点など)に見ることができます。
これは人間のDNAに刻まれた物語の原型であり、それ自体が一種の快楽であると考えられます。
有名なところでは、ディズニー映画やスターウォーズもこの聖書のナラトロジーを用いて成功を収めています。
プレゼンで述べたように、バタイユの神はキリスト教の神とはまったく別の神ですが、神を扱う点で同じであり、『マダム・エドワルダ』にいたっては聖書のナラトロジーと完全に合致する物語構造をもっています。
コロック登壇者の野尻氏が分けられたように、本著は「娼館:鏡の間」「サン=ドニ門周辺」「タクシー車内」という3段階に分けて考えられます。
これに聖書のナラトロジーを当てはめると下記の構図になります。
①娼館「鏡の間」=セパレート(分離)
②サン=ドニ門周辺=イニシエーション(放浪・通過儀礼)
③タクシー車内=リターン(帰還)
『マダム・エドワルダ』にはいくつかのキーワードがありますが、今回は「酔い」と「裸」に注目してください。
冒頭数行目から、さっそく次のような文章がはじまります。
「ひとりぼっちで、わいせつな気分も高まり、酔いはきわまった。ひとけのない通りで、夜が裸になっていた。私も夜と同じように裸になりたくなった」
そして主人公の男は「ズボンを脱」ぎ、「目もくらむような自由」に包まれ、「自分が大きくなったように感じ」、「手は硬直した性器」をつかみます。
裸とは『エロティシズム』によれば、“交流(コミュニカシオン)”の状態です。
ズボンを脱いで性器を露出することで、“俗なる時間”から“聖なる時間”へと移行します。
構図としては“酔い=裸=交流(コミュニカシオン)”であり、その精神状態のまま娼館「鏡の間」に赴き、エドワルダと出会います。
「あたしは神なのよ……」と告げるエドワルダ。
彼女に導かれて階段を上り、鏡が並んだ一室で男はエドワルダとセックスをします。
このセックスによって、「淫売屋の裸体は肉を切り裂く包丁を連想させる」とあるように、男(私)は肉切り包丁によって切り裂かれ(供犠に処され)、“聖なるもの”との結合を果たすのです。
後で述べますが、①で結合シーンが「……」のみで、具体的に描かれないのは、非常に重要な意味を持ちます。
①の段階は、聖書で言うところのエデン(楽園)の状態です。
エデンにいたアダムとイヴは、神に禁じられていた善悪の知識の実を食べた後、はじめて自分たちが裸であることに気づき、それを恥ずかしく思い、イチジクの葉で身を隠します。
原罪により、自己を相対的に見るようになってしまったのです。
自己と世界の分裂を知らぬ完全な人間だったアダムとイヴは、神の罰により分裂した不完全な人間へと凋落し、完全な世界(楽園)から追放されます。
『マダム・エドワルダ』において“分裂”はいつ始まるのか。
それはp16、鏡の間から外出する時に、エドワルダが男に放った「あなたは裸じゃ出られないでしょ!」という宣告です。
男が服を着て(コミュニカシオンが断たれ)、鏡の間というエデンから外へ踏み出すと、エドワルダは突如として男のもとから走り去ります。
神から分離するイニシエーション(放浪・通過儀礼)として、②サン=ドニ門周辺の場面に切り替わったのです。

門の下の、アーチの真ん中で立つエドワルダを見たとき、男の「酔いは完全に醒めはてて」、「彼女が神であることを知」ります。
神から分離して、初めて神を知ったのです。
コンタクトレンズを見るためには、一度眼から外し、距離を置いて眺める必要があるのと同じように、神から離れなければ、神を描写することは出来ません。
つまり、エドワルダから離れなければ、交流(コミュニカシオン)が断ち切られた状態でなければ、酔いから醒めた状態でなければ、そもそも『マダム・エドワルダ』という作品を描けないことが明示されています。
三島由紀夫はこの作品を評して次のように述べています。
「ただ明らかなことは、バタイユが、エロティシズム体験にひそむ聖性を、言語によっては到達不可能なものと知りつつ、(これは又、言語による再体験の不可能にも関わるが)、しかも言語によって表現していることである。それは「神」という沈黙の言語化であり、小説家の最大の野望がそこにしかないのも確かなことである」
②の場面によって、バタイユの神、すなわちエドワルダがどのような神なのかが分かります。
「いきなり錯乱して、走りだし、急に止まり、ガウンの布を翻し、尻をあらわにして、腰を突き動かし、それから振りむいて、私に飛びかかってきた。野蛮な風が女を吹き上げている。私の顔をはげしく叩き、本気で殴りあいをするように拳を固めて打ってきた。私がよろめき、倒れると、走って逃げ去った」
エドワルダは理知から完全に隔たった神として、分かりやすく言えばディオニュソス的な神として描かれ、その無意味な蕩尽により、苦悶の内にくずおれます。
この際の「息がつまる」「くそくらえだ…」というエドワルダの叫びは、交流(コミュニカシオン)の断絶とその希求による叫びであり、贖罪により十字架に磔にされたキリストの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ、なぜ見捨て給うたか)」の叫びと符合します。
「みみずの切れはしのようにのたうち、引きつけに襲われたように息をつまらせている。…ひどく暴れまわったために、恥毛までむきだしになっていた。だが、いまや彼女の裸身は意味を失い、同時に、死女の衣裳と等しい意味の過剰をまとっていた」
この荒れ狂ったイニシエーションを通過し、エドワルダのそばにひざまずく男の中で、確かな変化が生じます。
「絶望の中で飛躍が起こった。エドワルダの痙攣が私を私自身からひきはがし、罪人が死刑執行人にひき渡されるように、私は容赦なく暗い彼方へと放り出された…引き裂かれ、ばらばらになった私は、ある力が働き始めるのを感じとった…完全な停止不能の状態から、熱が発し、乾ききった陶酔が生じようとしていた」
エドワルダの痙攣が男に伝わり、男に再び「酔い」が生じたとき、ついに③救済・復活(タクシー車内)の場面へと転換します。

タクシーの密室でエドワルダはボレロを脱ぎ、仮面を捨て、「けものみたいに裸」になり、交流(コミュニカシオン)の状態へと移行します。
エドワルダはタクシー運転手のズボンを脱がし、タクシーの車内で運転手と結合します。
この時、男は結合には一切関与せず、ただひたすらに結合の様子を、エドワルダの悦楽を「見つめ」ます。
男が“見る者”すなわち“カメラ”の役割に徹することで、はじめて“聖なる時間”が記録されていくのです。
ここにいたって、ついにエロティシズムは読者の眼前に現れ(文章化され)ます。
エドワルダが絶頂を迎え、彼女のうなじを支えていた男の手にその痙攣を伝えたところで、物語は幕を閉じます。
①で交流(コミュニカシオン)を断たれて追放され、②の苦悶によって交流(コミュニカシオン)を回復し、③によって“聖なるもの”に帰還する。
まさに聖書のナラトロジーをなぞって『マダム・エドワルダ』は完成するのですが、三島由紀夫が言うように“聖なる時間”は再体験できるような類のものではありません。
では何を試みたのか。
どのような呪力を込めたのか。
それこそは、冒頭に記した「ある裂け目」に私たちを連行することなのです。
「ある裂け目」については、これ以上言及できません。
「この本には秘密がある。だが、それに関しては秘密を守らなければならない。この秘密はあらゆる言葉より遠いところにあるからだ」と本書にも記されているように。
当記事の解釈もほんの概観を述べたに過ぎず、まだまだ多くの重要な点が残されています。
紙面の都合によりこれ以上書くことは出来ませんが、他サイトで評されているようなただのポルノでもなければ、ストーリーを無視してよい散文詩でもなく、一語一句緊密にバタイユの思想に結ばれた理詰めの作品であることは確かです。
バタイユの秘密に、ほんの少し輪郭を与えるなら、コロック出演者の佐々木氏もその重要性を指摘した『マダム・エドワルダ』の序文が参考になるので、ここに記載します。
それでは、また次回をお楽しみに。
「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断っておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか……? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?」
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『闘牛の歴史とエロティシズム』 スペインを貫く生と死のドラマ

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08.2012
『闘牛の歴史とエロティシズム』 スペインを貫く生と死のドラマ

「それゆえ闘牛は、たしかにスポーツ的な要素は含むが、闘牛固有の悲劇的な性格――殺戮が行われ、しかもそれが祭式執行者の生命に対する直接の危険をともなった殺戮であることによって二重に悲劇的なその性格から、スポーツ以上のなにものかでもあると結論せざるをえないのである」 ミシェル・レリス『闘牛鑑』
世界に数多ある業種の中で、闘牛士より眩い職業があるでしょうか。
彼らの纏う衣服は「光の衣裳(トラッヘ・デ・ルーセス)」と呼ばれます。
こんなにも夥しい金襴や刺繍は、路傍で着ていたなら下品で滑稽な服装になり下がり、嘲笑の的になるに違いありません。
(ある種のコメディアンは、わざと豪華にデフォルメした衣装を着て笑いを誘います)
“死”、ただ死だけが、この眩いほどの装飾を是認するのです。
闘牛というと、私たち日本人にはなじみが薄いものです。
目にする機会といえば、テレビでのハプニング映像くらいでしょう。
(今ではそれすらも見かけませんが)
スポーツなのか、ショウなのか、日本の相撲を単にスポーツと呼べない以上に、スペインの国技である闘牛の定義は難しい。
ただひとつ言えることは、国民的な規模で“死”を扱う、おそらく唯一現存するスペクタクルだということです。
冒頭に掲げた文章はミシェル・レリスの『闘牛鑑』に収められた一節ですが、バタイユはこの本に強い影響を受けて『エロティシズム』を書き上げ、これをレリスに献じています。
明日に差し迫ってきた「没後50周年記念 ジョルジュ・バタイユ降霊祭」
今回はその予習の意味もかねて、闘牛という観点からエロティシズムについて考えてみたいと思います。

パブロ・ピカソ『闘牛士の死』
闘牛(コリーダ)の起源について詳しいことは分かっていませんが、大体次の4つの説が唱えられてきました。
①イスラム起源説
②ローマ起源説
③牡牛信仰起源説
④イベリア起源説
近年の歴史研究において①~③は全面的に否定され、④のイベリア起源説が最有力視されています。
11世紀、12世紀に馬上の騎士の訓練の一環として始まり、16世紀ごろから徐々に様式化され、同時期に民衆の間でも「牛追い祭」などが開催されるようになります。
18世紀に入り、貴族闘牛と民衆闘牛は融合を見せ、現代闘牛に近い形へと発展します。
この時、コリーダの洗練に重要な役割を果たしたのは、セビーリャの屠殺場と言われています。
従業員は屠殺の際に牛を走らせ、見物人たちは屋根の上からその様子を見て楽しんでいました。
こうした中で、角を避ける身のこなしや、エストカーダ(刺殺)の技術が磨かれていきます。
市当局は、貴族に代わって闘牛を行う者を探すとき彼らに目をつけ、彼らの活躍によって馬に乗らない闘牛が整備されていきます。
様々な資料から、さらに他起源説の誤謬からも、おそらくイベリア起源説は間違いなさそうですが、それでもこう信じたい。
闘牛の起源は古代の牡牛信仰であると。

牡牛を殺すミトラス
闘牛に魅了された文化人は、パブロ・ピカソ、ガルシア・ロルカ、フランシス・ゴヤなどのスペイン人の他、ヘミングウェイ、モンテルラン、ジャン・コクトー、ミシェル・レリス、エドゥアール・マネ、そしてジョルジュ・バタイユなどが有名です。
彼らを魅了したものは、牡牛信仰起源説としての闘牛であり、そこに宗教的供犠の現れを見てとりました。
闘牛を古代宗教に見られる牛崇拝・供犠から発し、キリスト教とミトラス教の混淆した儀式として捉える方法は、モンテルランの小説『闘牛士』の中でもかなり詳細に描かれています。
ミトラス教は、キリスト教と並ぶ救済宗教として1世紀から4世紀にかけてヘレニズム・ローマで絶大な支持を集めました。
上記の画像は、ミトラス教の神であるミトラスが雄牛を屠っている場面であり、これ自体が教義のシンボルです。
4世紀後半にキリスト教がローマ国教に据えられると、ミトラス教の神殿や文物は徹底的に破壊されますが、パンと葡萄酒による聖餐は聖体拝領として、冬至における太陽神復活の儀式はクリスマスとして取り込まれ(奪われ)るなど、キリスト教に与えた影響は少なくありません。
ミトラス教の密儀については大部分が謎のままですが、世界を創造する子宮を意味する洞窟内で、月と太陽と5惑星(水星、金星、火星、木星、土星)に照応した7段階のイニシエーションを行い、その中で供犠に処された牡牛の血を浴びる儀式があったと考えられています。
ミトラス教の秘儀は、牡牛を屠ることによって新たな生命力を吹きこみ、太陽と世界を救うという意味が込められていました。
地中海に伝わる祭儀を研究した宗教史家アルバレス・デ・ミランダは次のように述べています。
「古代人は牡牛―中でも家畜化された種牛―を創造力、生殖力の卓越した貯蔵庫と看做していた。したがって古代人は、接触その他の魔術的な感染方法によって、この牡牛の生殖力を彼らの目的のために活かしうると信じていた」
「闘牛は、牡牛の生殖力に対する原始的な直観とその力の伝達を達成するための魔術的な祭儀に起源をもち、その祭儀が遊びに、世俗的な見世物に変わって行った」

ディオニュソスの神殿跡
ここでもう一歩踏み込んで、それ以前の牡牛崇拝、カナン地域において圧倒的な信仰を集め、エジプト神話にも取り入れられたバアル崇拝を考えてみましょう。
牡牛神としても知られているバアルは、嵐や稲妻などの荒々しい神であると同時に、慈雨による豊穣の神でもありました。
つまり天候という制御不能の領域を司り、大地に多大な影響を及ぼす神なのです。
旧約聖書には、供犠や狂乱の踊りを伴う異教の神として登場します。
ここまで見ると、狂乱と酩酊の神・ディオニュソスを意識するのは私だけではないでしょう。
しかもディオニュソスは「牡牛の角を持った神」として描写され、その秘儀では仔牛・牡牛を生きたまま裂いて喰らうのです。
エリファス・レヴィによれば、牡牛の血を流出させることは生命力の回復と大地豊穣の象徴です。
ディオニュソスも元々は東方の神であることを加味すると、この東方宗教の共通項がただの偶然だと考えるのは合理的ではありません。
そして、皆さんご存知の通り、ディオニュソスはキリスト教において「悪魔のイメージ」を付託されています。
闘牛は、この「悪/死」との衝突であり融合のドラマなのです。

闘牛にはスポーツに欠かせないスコア(点数)というものがありません。
どれほど角に接近し、どれほど華麗なパセ(布技)を見せ、どれほど巧みに猛牛を操ったのか、観衆の「オーレ!」の掛け声の声量によって測られます。
とどめの一突きは、最も慎重を期する場面です。
何度も刺したり、牛を苦しめたりすれば容赦ないブーイングが浴びせられます。
一突きで正確に内臓を貫き、静かに膝をつかせることが求められます。
素晴らしい闘牛を見せた者には、主催者からオレハ(牛の耳)が贈られ、さらに喝采が止まない場合は角、そして尻尾が贈られます。
こうした劇場を包む感動によって、その闘牛の価値が決まるのです。
ですが常に人間が生き残るわけではありません。
砂の上に散った闘牛士、命を落としたマタドールは、殉教者のごとく厳かに葬送されます。

エドゥアール・マネ『死せる闘牛士(死せる男)』
闘牛というと、牛と人が闘うものと多くの人が誤解しているようですが、そうではありません。
むしろ、共同して一つの悲劇へと上り詰める身体芸術です。
最も近似しているのはダンス、接触は即惨事を意味しつつも狂おしく接近するダンス。
死を賭したワルツでありタンゴなのです。
そして、あらゆるダンスがそうである以上に、闘牛の表象は性行為との類似を見せます。
この意味においても、闘牛は高度に結実したエロティシズムといえるでしょう。
象徴的な深読みがほとんど必要ないほどに、闘牛の外面的なディテールそのものが性愛の特徴に彩られています。
ミシェル・レリスは『闘牛鑑』の中で次のように述べています。
「本質的に男根のような牛の容貌(闘牛のあとで牛の生殖器を食べることを名誉と考える愛好者もいる)。連続するパセにおける―一種の親密なダンスで結ばれた―人間と動物の信頼関係、往復運動のリズム(コイタスの動きのような交互に行われる接近と離脱の連続)。あの一種の挿入ともいうべきとどめの突き(きまった言い方によれば剣は《指が濡れるまで》傷口に突き刺さることが望ましい)による、この愛のパレードの終幕」
闘牛の表象そのものがエロティックであると同時に、存在の本質としてのエロティシズムも発現します。
人間を圧殺し、突き殺し、踏み潰すような、制御不能の巨大なエネルギーは“聖獣”として化身し、祭司のごとく煌びやかな屠牛士(マタドール)によって供犠に処される。
バタイユは「エロティシズムは窮極的には融合であり、限界の消去」であると述べています。
人類がいつでも卑下し、唾棄し、無視してきた「死/悪」というものが、太陽と砂ばかりの神殿において玉座に据えられ、それと命を捧げて交わることで「聖なるもの」へと到達する、筋書きのない悲劇なのです。
ヘミングウェイは“恍惚”という強い言葉を用いて次のように述べています。
「このファエナ(牛にとどめを刺す闘牛の最終場面)は、ひとを自分自身の外へと連れ出し、ファエナの行われている間その人に自分を不死だと感じさせ、一瞬ではあるが宗教的な恍惚と同じほど深い恍惚を体験させる、そういうものなのである」

正直、闘牛に関しては語りたいことが多すぎて一記事ではとても収まりません。
今後も折に触れて記事にしたいと思います。
さて、ここまでご覧になった皆さんは、おそらく闘牛が観たくて仕方なくなっていることでしょう。
現地で見るのがベストなのは承知ですが、スペインとなると早々行けるものではないので、人気闘牛士セバスチャン・カスティーリャ(Sebastian Castella)のファエナ(終幕)の映像を末尾に付しておきます。
闘牛はスペインでは現在下火で、最大規模を誇っていたバルセロナ闘牛場も今年1月で禁止され、大型のショッピングセンターへと変わってしまいました。
野蛮の極みである闘牛は、今後は衰亡の一途をたどるでしょう。
個人的には、これほど“兇暴なまでに宗教的”なスペクタクルが現代まで続いたということだけでも喝采したい気分です。
この生命の豪奢な“蕩尽”が、21世紀において残されたという事実は、永遠にスペインという地を聖別するのです。
いかなる起源をもっていようとも、闘牛という悲劇的・儀式的な生と死のドラマは、今なお疑いなく存在しています。
灼熱の太陽と砂ばかりの神殿が破壊され尽くすまで、スポーツもアートも超えた遥かなる次元に君臨し続けるに違いありません。
ここまで書いた闘牛の全てを総括しつつ、現代へ投げかける言葉として、写真家・奈良原一高先生の『スペイン・偉大なる午後』から文章を抜粋して終わりたいと思います。
また次回をお楽しみに。
「闘牛は芸術と呼ぶには、あまりにも人間に近すぎる行為だ。スポーツと見なすにはあまりにも真剣でありすぎる。それは牛の死と、人間の生命を捧げられた儀式であり、血の匂いをあおぐ舞踊なのである。遠い昔に捧げられた神はもういない。今日の儀式は供えるべき目的もなく、その舞いが讃えるべき神もない。
舞いが美しければ、闘牛士は神の座に登るだろう。その光景はかって勇者が、神の名を授けられた物語を思い起こさせる。しかし、その光りの服がいどむ闘いの実際は極まりなく生々しい現実であり、闘う者も恐怖を知る人間なのである。今日の闘牛は牛の死に至るまでの勇敢さを貢物として演じられる生命の緊迫感の美的感動によって成り立っているのだが、そこには死にいく牛と、あくまでも生き抜いて、獰猛に襲いかかる死の影を操り抜こうとする人間の意志のあらがいが一枚の布切れの動きと、ひとふりの剣のひらめきに託されているのである」
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