24.2012
『会田誠展:天才でごめんなさい』 現代における比類なき寂寥の美

会田誠とその作品『灰色の山』(2009-2011)タグチ・コレクション蔵
新規事業等でバタバタと動き回っている中、当研究所のサウンドクリエイター松登氏に促され、息抜きに六本木・森美術館で開催中の会田誠展「天才でごめんなさい」へ出向くことに。
90年代以降、日本のローカルチャーをハイアートに接続する動きがアートシーンで活発化し、93年に『巨大フジ隊員VS キングギドラ』でデビューした会田氏の作品も、オタクカルチャーとの融合という文脈で語られることが多かったように思えます。
さらに四肢を切断された少女を描く『犬』シリーズが脚光を浴び、猟奇系アーティストとしてもイメージを強めていきます。
会田ファンはもちろん、まだその作品を実物で見ていない方や、勢いのある現代アーティストの一人に過ぎないという認識の方がいれば、ぜひとも本展覧会に足を運んでみてください。
私自身、今まで会田氏に嵌め込んでいたイメージの枠をフルスイングで打ち壊され、こちらの方こそ「ごめんなさい」と脱帽してしまうほどの内容でした。
過去作品が一挙網羅されていることに加え、未完ではあるものの新作の出来が素晴らしい。
今回の記事では、展覧会の感想だけでなく、作品の特徴や分析も加えて多角的に書きたいと思います。

会田誠『ジューサーミキサー』(2001)高橋コレクション蔵
あたりまえの誹りは免れませんが、まずもって言えることは、会田誠の作品は実物を見なければ始まらないということです。
私が今まで見た中でも、写真と実物との間に最もギャップが生じている作家です。
例えば、夥しい女性をジューサーに詰めた『ジューサーミキサー』。
こちらも有名な作品なので、画集や特集などで見知っている方も多いと思われますが、特筆すべきは290×210.5㎝という作品の大きさです。
この3メートル近い実物を前にした時に、はじめて緻密に描かれた女性たちの身体が、西洋美術的な肉体表象と密接にリンクしていることに気がつくのです。
この巨大な画布に一体一体丁寧に描かれた裸婦の堆積は、それだけで一種異様なアウラを放っていますが、注目すべきはその底の底、回転する刃に巻き込まれ、今まさに切り刻まれようとする女性たちです。
彼女たちがいる場所は、まぎれもなく「地獄」。
その肉体描写は、『神曲:地獄篇』にある「肉欲に溺れた者たちが荒れ狂う暴風に翻弄されるシーン」をモチーフとした、ロダンの『地獄の門』におけるそれと同様のものであり、こう言ってよければ神々しさすら漂っています。
積み重なる大量の女性は“消費される女性”の象徴であり、密閉され切り刻まれる様は現代の逃れがたい資本主義構造を暗示しているかのようです。
「ジューサー」であるからには、彼女たちの鮮血は「飲まれる(消費される)」ものなのです。

会田誠『考えない人』(2012)
会田氏の作品の特徴は、大きく要約して3つあります。
第1の特徴は、人物や物を大量に集積・乱立・反復させ、その集合体によって恣意的なモチーフを形成する方法です。
冒頭の『灰色の山』や上述した『ジューサーミキサー』を筆頭に、『滝の絵』『monument for nothing ⅲ・ⅳ』にも同様の方法が採られています。
それ自体では通常の意味しか持たないものが、“大量に積み重なる”ことで、何倍にも増幅・拡大された“異質の意味”を帯びるようになるのです。
第2特長は、日本の伝統芸術の「型」に、意図して卑俗なモチーフや現代的なモチーフを組み込む手法です。
日本画風に箔押しされたキャンバスにゴキブリを描く『火炎縁蜚蠣図』や、砂子を施した巻物に、繊細な墨跡で「2ちゃんねる」のスレッドの文章を書いた『日本語』などに顕著です。
「型」というすでにそれ自体で美しい箱の中に、上記のような“そぐわないモチーフ”を投入することで、必然的に伝統と現代との関連性・対立性が浮きぼられ、鑑賞に耐えると共にコンセプチュアルな作品へと変貌させます。
第3の特徴は、二重三重に張り巡らされたアイロニーと批評性です。
例えば、9.11で崩落したツインタワーを、飛行機の操縦席に座るパイロットの視点から描いた『イマジン』では、彼らの立場や心象をほとんど理解することなく、呑気に平和を歌い続けることを痛烈に皮肉ると共に、わざと拙劣な筆致で描くことで、「平和を想像しよう」というおなじみのスローガンの偽善性・不毛性までも表しています。
これを「みんなといっしょ」というシリーズに加えることで、さらに作品は多重的な意味を持つようになります。
こうした批評性こそ、会田誠をコンセプチュアルな現代美術へと強固に結びつけている一番の要因でしょう。
今回の展覧会を見る限り、会田氏の作品は、この3点のいずれか、もしくは複合によって成り立っていると言えそうです。
例えば、本展覧会「天才でごめんなさい」で唯一撮影が許された立体の新作『考えない人』は、第2と第3の複合型です。
糞便から植物が育ち、我々が口にする食品となり、再び糞便として大地へ還り、そこから植物が萌え出るという、生命の循環性を表した作品です。
右手の相、半眼、なよやかな身体の線を見れば、国宝第一号である広隆寺『弥勒菩薩半跏像』を「型」にしていることは容易に察しがつきますが、それが卑俗なモチーフによってパロディ化されています。
そして、タイトルを「考えない人」としているところに、ロダンの『考える人』、即ち「西欧的理性」への批判と、より自然と一致した東洋思想の称揚を読み取ることもできます。
このようにスタイルを固めることで、様々なタイプの作品を打ち出すにもかかわらず、並べてみると一人の作家として確たる統一感が生まれているのです。
会田氏の作品は、よく混沌・カオスという言葉で表現されますが、その実、非常に端正なものだと感じます。

会田誠『紐育空爆之図』(1996)高橋コレクション蔵(寄託:東京都現代美術館)
会場に到着したのは夕方。
平日だったこともあり、あまり混んでいませんでした。
夜10時まで開いているので、仕事帰りのカップルなども多く見受けられ、キャッキャしている人もいれば、理解できず完全に引いている人も。
会田誠を語るにあたって、村上隆がよく引き合いに出されますが、この両者で決定的に違う点は、村上氏が「外」に向かっているのに対し、会田氏は「内」に留まっていることです。
以前の記事で、村上隆は「日本の美の翻訳者」であると書いたように、村上氏の作品は日本のポップカルチャーを西欧向けに再構成した「ART」ですが、会田氏の作品は、あくまで日本語のコンテクストよる「美術」と呼ぶことができるでしょう。
作品だけを見れば似た印象を受けるかもしれませんが、両者のアプローチは正反対と言っていいほど異なっています。
日本語以外の言語を話すことを、逆に“凡庸”だとして切り捨てる会田氏。
さらに氏の場合は、複製に還元されない手業(メチエ)への執着という、日本の伝統的な芸術家像も引き継いでいます。
日本美術の文脈を集約したかのようなアーティストであり、こうした背景が、国内における会田氏の高い評価につながっていることは間違いないでしょう。
一言で言えば、会田誠は「俺たちの芸術家」なのです。
六本木という場所柄、本展覧会では外国人の姿も多く見受けられました。
安全装置がついた首つり台『自殺未遂マシーン』を見ながら、しきりに「Amazing! Amazing!」と漏らしていたことが印象に残っています。

会田誠『電信柱、カラス、その他』(2012-)
会田氏の作品は、それ自体が持つ批評性から、語りだしたら止まらなくなるような魅力がありますが、きりがないので最後に1点だけ。
今回の展覧のために制作された六曲一隻の大作『電信柱、カラス、その他』(未完)について。
薄霧におぼめく電信柱、不穏に飛び交うカラス。
高架線に停まったカラスをよく見ると、セーラー服や眼球を掴んでいたり、千切れた指や毛髪をついばんでいます。
これは外界に累々と死体が転がっていること暗示し、傾いだ電柱が意味するものは、地盤の崩壊に他なりません。
過ぎ去ったばかりのカタストロフ。
3.11に関連したアート作品は、現在まで数多く生み出されましたが、その極北に屹立する作品です。
実物大に描かれたこの屏風絵の前に立った時、一瞬にして絵の世界に引きずり込まれました。
鉛のような静寂の中で、私は確かにカラスの羽音を聞き、霧に混じる死の匂いを嗅いだのです。
全体の構図やイメージなど、長谷川等伯の『松林図屏風』を下敷きとしていることは疑いようがありませんが、本作はそれらを超え出て、まったく独自の表現世界を確立しています。
“現代における寂寥の美”として、比類のない傑作と言えるでしょう。
明日はクリスマス。
気になっている方は、ぜひ六本木・森美術館に足を運んでみてください。
アートの面白さ、凄味、悦楽の全てが味わえるはずです。
会場の外はイルミネーションも満載ですので、デートのついでにちょうどいいかもしれません。
エログロ系の作品は18禁ブースに収められているため、苦手な方は素通りすることもできます。
当研究所で扱ったにもかかわらず、猟奇系作品の内容にあまり触れていないことに疑問を持たれる方もいるかもしれませんが、ご安心ください。
次回の記事で徹底的にやります。
そこで会田誠のスプラッター表現における特殊性も見えてくるでしょう。
お楽しみに。
追記
1月22日に放送された『ぶらぶら美術・博物館』で、ゲストの山下裕二先生(明治学院大学教授)と、片岡真実さん(キュレーター)による本展覧会の解説では、多くの作品がシンメトリカルであること、例えば『灰色の山』が男性の集積であり、『ジューサーミキサー』が女性の集積であるような、対の関係性の豊富さについて述べていました。
重要な視点だと思うので追記します。
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02.2012
『ボストン美術館 日本美術の至宝』 美を守る者たちの遺産

曽我蕭白『雲竜図』
久々の更新になってしまいました。
書きたいことは山ほどあるのですが、なにせ時間がありません(涙)
不定期ながら記事の更新は続けていくのでよろしくお願いいたします。
本日は開催中のボストン美術館展について。
会期も終盤に近づいてきましたが、客足も多く、評判通り素晴らしい内容でした。
ボストン美術館は、世界最大級の東洋美術のコレクションを誇る「東洋美術の殿堂」として知られていますが、その名に恥じぬ超名品揃い。
日本にあれば、まちがいなく国宝に認定されるような傑作が数多く並びます。
こうした傑作が海外へ渡ったことを惜しむ反面、世界中の人の目に触れる機会が増すことは喜ばしいことです。
あまりよろしくない作品で日本を判断されるのも考えものですよね(笑)

尾形光琳『松島図屏風』
展覧会の概要は次の通りです。
・プロローグ コレクションのはじまり
・仏のかたち 神のかたち
・海に渡った二大絵巻
・静寂と輝き-中世水墨画と初期狩野派
・アメリカ人を魅了した日本のわざ-当件と染織
・華ひらく近世絵画
・奇才 曽我蕭白


左:ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926) 右:橋本雅邦『騎龍弁天図』
プロローグでは、1882年にフェノロサと共に来日したビゲローの肖像と岡倉天心の彫像、そして狩野芳崖と橋本雅邦の作品が迎えてくれます。
19世紀末、近代化・西洋化を進める日本が、自ら否定した日本美術。
それに価値を見出し、保護と啓蒙に生涯を捧げた人物たち。
それによって日本美術を推し進めることができた作家たち。
こうした経緯のすべてが簡潔に表現された見事なプロローグだったと思います。
ボストン美術館が、なぜこれほどまでの日本美術の傑作を収集できたのか。
一時的にせよ、我々日本人は日本美術を捨てようとしていた、否、実際に捨てたのです。
詳しくは、記事『現代美術(モダン・アート)とは何か』をご覧ください。
ちなみにビゲローは後のボストン美術館理事、フェノロサはボストン美術館東洋部長に就任しています。

平治物語絵巻
今回の展覧会のメインディッシュは、やはり曽我蕭白。
画集で見るよりも、遥かに遥かに遥かに狂気に満ちています。
おそろしく大胆な筆跡があるかと思いきや、緻密に置かれた墨痕、それでいて一般的な調和を逸脱する構図・デタイユ。
そこには、不協和音だけで荘厳な旋律を奏でるような「錯綜」があり、圧倒的な技術力が基盤となって、世にも不吉な美の交響曲を築いています。
しかし、そのおどろおどろしさも、日本の文化・風土とかけ離れたものではありません。
幽霊画や無惨絵など、日本独自の美意識と根は同じものです。
個人的に一番怖かったのは、その文字。
筆跡からある程度の人柄は予想されますが、蕭白の文字は怖すぎます(笑)
ぜひ一度ご覧になってください。

曽我蕭白『龐居士・霊昭女図屏風』
今回の展覧会の成功の影には、曽我蕭白や伊藤若冲など、近代以降忘れ去られていた画家を国内に紹介した辻惟雄先生の影響も少なくないと思われます。
ベストセラーを記録した『奇想の系譜』を筆頭に、辻先生の積極的な紹介がなければ、豊穣な日本文化の一端は、当の日本人に忘れられたままだったかもしれません。
フェノロサ然り、ビゲロー然り、岡倉天心然り、こうした審美眼こそが、最終的に「美を守る砦」なのです。



左:『普賢延命菩薩像』 中央:快慶作『弥勒菩薩立像』 右:『小袖 白綸子地松葉梅唐草竹輪模様』
今年は『北京故宮博物院200選』なども加えて、本当に素晴らしい展覧会が目白押し。
中でも『ボストン美術館展』の内容は群を抜いています。
今年のナンバーワン決定! と言いたいところですが、一番は別の展示です。
2012年はまだ半年残っていますが、それでもこの一番は変わらないでしょう。
これほどの衝撃をあたえた展覧会は他にありません。
詳細についてはまたの機会に。
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『北京故宮博物院200選』 中国文化を紐解く鍵・陰陽五行説
『会田誠展:天才でごめんなさい』 現代における比類なき寂寥の美

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15.2012
『北京故宮博物院200選』 中国文化を紐解く鍵・陰陽五行説

上野の東京国立博物館で開催されている北京故宮博物院200選に行ってきました。
200点ある作品のうち約半数が一級文物(日本で言う国宝)という完全に国家の威信をかけた展覧会でした。
近年の中国関連の展覧会では、規模・質ともに今回が最大と言えるかもしれません。
土曜日に行ったのですが、非常に混んでいて、中国の方の姿も多く見られました。
それにしても今年の東博の企画展からは、来月の「ボストン美術館 日本美術の至宝」も含め、もの凄い意気込みを感じます。
![[一級文物] 草書諸上座帖巻(そうしょしょじょうざじょうかん)(部分)](http://blog-imgs-36.fc2.com/b/i/g/bigakukenkyujo/20120215005158999.jpg)
一級文物 『草書諸上座帖巻(そうしょしょじょうざじょうかん)』(部分)
![[一級文物] 魯大司徒鋪(ろだいしとほ)](http://blog-imgs-36.fc2.com/b/i/g/bigakukenkyujo/20120215012859973.jpg)
一級文物 『魯大司徒鋪(ろだいしとほ)』

明黄色彩雲金龍文緙絲朝袍(めいこうしょくさいうんきんりゅうもんこくしちょうほう)
やはり作品が素晴らしい。
一点一点に中国の歴史・思想・文化が凝縮されています。
たとえば上記の皇帝が着る袍もそのひとつです。
「方位神の龍」は皇帝の象徴。
雲間に浮かぶ龍と、それを囲うように縁どられた海の浪が、天地を統べていることを表しています。
「黄色」は陰陽五行のうち「五方位の中央」をあらわしているため、皇帝の色とされています。
このように黄色という色ひとつとっても、ミクロとマクロが照応する独自の思想を持っているのです。
これを「陰陽五行説」と呼びます。
![[一級文物] 乾隆帝大閲像軸(けんりゅうていだいえつぞうじく)](http://blog-imgs-36.fc2.com/b/i/g/bigakukenkyujo/20120215012727a88.jpg)
一級文物『乾隆帝大閲像軸(けんりゅうていだいえつぞうじく)』
中国の文化を紐解くには、「陰陽五行説」の知識は必須です。
「陰陽五行説」はただの哲学に留まらず、衣食住すべてに関わる根幹的な思想であり、政治・経済・医学などもこの思想に基いて実行されてきました。
これほど長い歴史を持ち、緻密に整備され、森羅万象を包含するような思想で、「陰陽五行説」以上のものを私は知りません。
今回の展示では中国が多くの国に影響を与えていることだけでなく、逆に他国の影響も豊富に受けていることを知る良い機会にもなりました。
![[一級文物]《琺瑯蓮唐草文龍耳瓶》(ほうろうはすからくさもんりゅうじへい)](http://blog-imgs-36.fc2.com/b/i/g/bigakukenkyujo/20120215015555190.jpg)
一級文物 『琺瑯蓮唐草文龍耳瓶》(ほうろうはすからくさもんりゅうじへい)』

大威徳金剛(ヤマーンタカ)立像(だいいとくこんごうりゅうぞう)
ひとつだけ違和感があったのが、会場1ブロックも使ってチベット関連の物品が展示されていることです。
ここにある種の政治的意図を見るのは穿った見方でしょうか。
チベットが中国の一部であることをアピールしているように見えてならないのです。
芸術が政治と癒着するのは珍しいことではなく、国家のプロパガンダとして芸術が多大な影響を与えることは歴史が証明していますが、他の文物が素晴らしいだけに違和感は拭いきれません。
多民族構成による軋轢や混沌も、中国の歴史を知る上で無視できない一側面です。
その意味でも本展覧会は、美術工芸を通して中国を知る最高の催しと言えるでしょう。
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27.2012
三井家伝来 能面と能装束-神と幽玄のかたち-

二週間ほど前ですが、三井記念美術館で「三井家伝来 能面と能装束-神と幽玄のかたち-」を見てきました。
素晴らしい展覧会なので、遅ればせながら簡単なご報告を。
できれば「能」のシリーズと同時に記事にしたかったのですが、明日の1/28に展覧が終了してしまうので、慌ててアップすることにしました(汗)
作品のほとんどは、当然ですが日本伝統芸能である「能」に関するものです。
能にはいくつかの流派がありますが、その中でも華美で雅な拵えが多い「金剛流」の作品が中心。
能関連の展覧会は必ず行くようにしているのですが、今回の展覧会は予想以上に素晴らしい内容でした。
まず作品の展示の順番がいい。
はじめに鼓や能かるた、茶器などの前菜を置いて期待を高め、ちょうどいいタイミングでメインの「面(おもて)」の展示に入り、空腹が満たされたところで最後のデザートとして美麗な衣裳が展開されます。
それぞれのコースの長さ、商品点数も的確です。



ピックアップされた作品も質の高いものです。
重要文化財指定の作品が、大体三割~四割ほど含まれていたように思われます。
作品の一点一点に概要が付されているのも好印象です。
学芸員の方々の作品に対する愛情、それを伝えようとする情熱を感じました。

龍右衛門作「小面(花の小面)」
久々に身体に電流が奔るような作品とも出会いました。
豊臣秀吉が「雪・月・花」として愛玩した三つの面のうち、「花の小面」が展示されていたのです。
どのような彩色の魔術をこめたのか、数百年の時を経ていながら、まったくくすみを帯びておらず、一点のシミも微瑕もありませんでした。
他の高銘な面の中にあっても、その深雪のような肌の色は際立っています。
柿右衛門の濁手を想起させる不朽の白さです。
一目ぼれの感覚とは、おそらくこういうものかもしれません(笑)
上に写真を載せていますが、これではまったく伝わらないので、ぜひ本物をご覧ください。
こんな作品が一点あっただけでも、個人的には大満足です。
そのために足を運んでるようなものですからね。



館内は、ご年配、中年の方に混じって、意外と若い女性の姿が多かったのも印象的でした。
「能」は現存する表情芸術の中で最高のものであると思っています。
心理表現の手垢にまみれた演劇を嘲笑うかのように劇的要請のみに従って展開し、舞台上で「実際」に笑い、涙を流すことなど卑しいと言わんばかりに、一切は象徴によって示されます。
舞台装置といえば、神の憑代となる鏡松(松の絵)のみ。
その正方形の神聖な舞台で、「あの世」と「この世」が繋がるのです。
いずれ「能」の特集も組みますのでお楽しみに。
PS
世阿弥の「風姿花伝」は、おそらく日本における最大の美学書です。
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23.2012
『細江英公写真展』トークイベント 細江英公×ドナルド・キーン
ここらへんで閑話休題。
今日は銀座のBLD GALLERYで、最も敬愛する写真家・細江英公氏の写真展を見るとともに「トークイベント 細江英公×ドナルド・キーン」に参加してきたので、展覧会情報をシェアしたいと思います。
Eikoh Hosoe Photo Exhibition
細江英公写真展
2012年1月6日(金) - 5月13日(日)
OPEN 11:00 - 19:00
会期中無休
場所:BLD GALLERY
東京都中央区銀座2丁目4番9号 SPP銀座ビル8F
トークイベントの内容は、細江英公氏が土方巽を被写体として撮った「鎌鼬」について。
日本文学研究・翻訳の世界的大家であるドナルド・キーン先生を招いての開催です。
以前「暗黒舞踏」のカテゴリーで論じた内容を裏付けるお話しも伺うことができました。
印象に残った点を、いくつか掲載します。
※文字に起こすにあたって加筆修正しています。

細江英公『鎌鼬 作品8』
『鎌鼬』に掲載されたキーン先生の文章の朗読からトークは始まります。
「ひところカメラを首からぶら下げた日本人がきまって漫画に登場したものだった。なぜ日本人がカメラをぶら下げているかと言えば、それは自分の注意を引くものを即座に写真に撮るためである。……写真を撮ることと、日本の短い詩(俳句・短歌)を詠むことは、同じ感性の表れである」
ドナルド・キーン「細江先生の写真は、ただ美しいだけではなくて、人間の謎、理解できないような大事なものが色々あり、その不思議な世界を伝えることに成功しています。どの写真を見ても、何か不思議なものが入っています。それは人間の生活そのものです。私達の生活は美しいものだけではなく、醜いものだけでもありません。一番左の写真をご覧ください。女性と男性が車座になって楽しんでいますが、一人だけ恐い顔の人(土方巽)がいます。彼はどうして他の人たちと一緒にたのしく笑わないのか。それは細江先生が作った神秘の部分です。人間の命の謎が表現されていると感じます」
細江英公「この鎌鼬は私が戦争中に山形県米沢市に疎開をした時の記憶の記録だと思っています。同時に、そこに写っている人たちは現存していますから、その人たちのドキュメントであり、50年前に撮られたものですから、重要な場所の記録でもあります。現代化していく日本の寸前に撮られたものです」

細江英公「だいたい村の中には、だれかちょっと頭がおかしい、普通ではない人がいて、そういう人たちが村のはずれの氏神様の祠をねぐらにして、朝起きてきて村を巡り、おかしな行動をとりながら、ご飯を芽ぐんでもらう。村の人たちには、そういう人がいるという事が一つの大きな意味があるのではないか。時には目の見えない瞽女(ごぜ)が三味線を弾きに来る。そこで村人は受け入れ施すけれども、家の中までは入れない。村々を訪ねて歩く瞽女(ごぜ)のような人は、全体の田園生活の中では絶対に必要な存在だったと思います。そういう意味で、土方巽演じる「鎌鼬」は、村にとっては絶対に必要な存在です」
舞踏家の土方巽が、鎌鼬(村にとってのアウトサイダー)を演じているということが、何よりも「暗黒舞踏」と「まれびと」の結びつきを証明しています。
細江先生は、「鎌鼬」の構想があったから撮ったのではなく、土方巽という存在がいたから「鎌鼬」を撮ったとも仰っていました。

細江英公「(会場にかけられた上記の写真を指して)この女の子の赤ちゃんは、2000年の展覧会の時に、大きくなって30代になって、“これ私です”といってこの写真をずっと見てお帰りになったそうです」
ドナルド・キーン「60年前70年前にも写真はありました。田舎の写真を撮る人もいました。しかしそういう写真に面白いものはありませんでした。すべて事実、記録で、詩的なものはありませんでした。事実記録として価値のある物はあります。当時どういう生活をしていたか、家の中はどうだったか、知りたい人には得難いものですが、美術にはなっていません。しかし、細江先生の場合は事実に満足しません。何か事実を乗り越えるようなものを持っています。詩的なものと言いましょうか。驚きがあります。普通の記録の写真にけっして表れてこない。何か本質的なもの。それは過去の生活だけではなく、何かそれを乗り越えて行こうとする様子を感じます。それがこの写真に永遠の魅力を与えています。仮に畑がすべてスーパーマーケットになっても、写真の美が残ります。それは必ずしも普通の美ではない。何か根本的な、人間のある面を伝えるような美です」
細江英公「写真は日本においてはドキュメント、社会的な意味を持っていました。それは思想を巧妙に表すようになります。 社会主義的なものは表に出すと抵抗が生まれるので、社会的なということの中に社会主義的なドキュメントを入れることで、自分の主張思想を伝えようとする人がたくさんいました。それがうまく働いていれば、多くの人に影響を与えたのかもしれませんが、あまり上手くなかった。社会主義的な考え方で写真を撮るという、きわめて浅いところでそういうものがあった。こうした50年代の写真と、自分たちの60年代の写真、もっと個人的な問題にフォーカスした写真は闘ってきました」
ドナルド・キーン「これは本物の美術、これは記録でもなく、宣伝でもなく、珍しさのために撮られたものでもなく……日本が日本だった頃に撮られた、永遠に残る写真です」
細江英公氏が土方巽を被写体として撮った『鎌鼬』
画集では分からなかったのですが、写真の周辺に煙のように銀が浮いていました。
これは技術的には失敗だそうですが、このような不思議な銀が浮き出てきたことは偶然のこととはいえありがたかった、と仰っていました。
確かにその通りで、この写真周辺の銀が一種の妖しい神秘性をもたらしているように思われます。
技術的な側面にもかなり触れていました。
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今日は銀座のBLD GALLERYで、最も敬愛する写真家・細江英公氏の写真展を見るとともに「トークイベント 細江英公×ドナルド・キーン」に参加してきたので、展覧会情報をシェアしたいと思います。
Eikoh Hosoe Photo Exhibition
細江英公写真展
2012年1月6日(金) - 5月13日(日)
OPEN 11:00 - 19:00
会期中無休
場所:BLD GALLERY
東京都中央区銀座2丁目4番9号 SPP銀座ビル8F
トークイベントの内容は、細江英公氏が土方巽を被写体として撮った「鎌鼬」について。
日本文学研究・翻訳の世界的大家であるドナルド・キーン先生を招いての開催です。
以前「暗黒舞踏」のカテゴリーで論じた内容を裏付けるお話しも伺うことができました。
印象に残った点を、いくつか掲載します。
※文字に起こすにあたって加筆修正しています。

細江英公『鎌鼬 作品8』
『鎌鼬』に掲載されたキーン先生の文章の朗読からトークは始まります。
「ひところカメラを首からぶら下げた日本人がきまって漫画に登場したものだった。なぜ日本人がカメラをぶら下げているかと言えば、それは自分の注意を引くものを即座に写真に撮るためである。……写真を撮ることと、日本の短い詩(俳句・短歌)を詠むことは、同じ感性の表れである」
ドナルド・キーン「細江先生の写真は、ただ美しいだけではなくて、人間の謎、理解できないような大事なものが色々あり、その不思議な世界を伝えることに成功しています。どの写真を見ても、何か不思議なものが入っています。それは人間の生活そのものです。私達の生活は美しいものだけではなく、醜いものだけでもありません。一番左の写真をご覧ください。女性と男性が車座になって楽しんでいますが、一人だけ恐い顔の人(土方巽)がいます。彼はどうして他の人たちと一緒にたのしく笑わないのか。それは細江先生が作った神秘の部分です。人間の命の謎が表現されていると感じます」
細江英公「この鎌鼬は私が戦争中に山形県米沢市に疎開をした時の記憶の記録だと思っています。同時に、そこに写っている人たちは現存していますから、その人たちのドキュメントであり、50年前に撮られたものですから、重要な場所の記録でもあります。現代化していく日本の寸前に撮られたものです」

細江英公「だいたい村の中には、だれかちょっと頭がおかしい、普通ではない人がいて、そういう人たちが村のはずれの氏神様の祠をねぐらにして、朝起きてきて村を巡り、おかしな行動をとりながら、ご飯を芽ぐんでもらう。村の人たちには、そういう人がいるという事が一つの大きな意味があるのではないか。時には目の見えない瞽女(ごぜ)が三味線を弾きに来る。そこで村人は受け入れ施すけれども、家の中までは入れない。村々を訪ねて歩く瞽女(ごぜ)のような人は、全体の田園生活の中では絶対に必要な存在だったと思います。そういう意味で、土方巽演じる「鎌鼬」は、村にとっては絶対に必要な存在です」
舞踏家の土方巽が、鎌鼬(村にとってのアウトサイダー)を演じているということが、何よりも「暗黒舞踏」と「まれびと」の結びつきを証明しています。
細江先生は、「鎌鼬」の構想があったから撮ったのではなく、土方巽という存在がいたから「鎌鼬」を撮ったとも仰っていました。

細江英公「(会場にかけられた上記の写真を指して)この女の子の赤ちゃんは、2000年の展覧会の時に、大きくなって30代になって、“これ私です”といってこの写真をずっと見てお帰りになったそうです」
ドナルド・キーン「60年前70年前にも写真はありました。田舎の写真を撮る人もいました。しかしそういう写真に面白いものはありませんでした。すべて事実、記録で、詩的なものはありませんでした。事実記録として価値のある物はあります。当時どういう生活をしていたか、家の中はどうだったか、知りたい人には得難いものですが、美術にはなっていません。しかし、細江先生の場合は事実に満足しません。何か事実を乗り越えるようなものを持っています。詩的なものと言いましょうか。驚きがあります。普通の記録の写真にけっして表れてこない。何か本質的なもの。それは過去の生活だけではなく、何かそれを乗り越えて行こうとする様子を感じます。それがこの写真に永遠の魅力を与えています。仮に畑がすべてスーパーマーケットになっても、写真の美が残ります。それは必ずしも普通の美ではない。何か根本的な、人間のある面を伝えるような美です」
細江英公「写真は日本においてはドキュメント、社会的な意味を持っていました。それは思想を巧妙に表すようになります。 社会主義的なものは表に出すと抵抗が生まれるので、社会的なということの中に社会主義的なドキュメントを入れることで、自分の主張思想を伝えようとする人がたくさんいました。それがうまく働いていれば、多くの人に影響を与えたのかもしれませんが、あまり上手くなかった。社会主義的な考え方で写真を撮るという、きわめて浅いところでそういうものがあった。こうした50年代の写真と、自分たちの60年代の写真、もっと個人的な問題にフォーカスした写真は闘ってきました」
ドナルド・キーン「これは本物の美術、これは記録でもなく、宣伝でもなく、珍しさのために撮られたものでもなく……日本が日本だった頃に撮られた、永遠に残る写真です」
細江英公氏が土方巽を被写体として撮った『鎌鼬』
画集では分からなかったのですが、写真の周辺に煙のように銀が浮いていました。
これは技術的には失敗だそうですが、このような不思議な銀が浮き出てきたことは偶然のこととはいえありがたかった、と仰っていました。
確かにその通りで、この写真周辺の銀が一種の妖しい神秘性をもたらしているように思われます。
技術的な側面にもかなり触れていました。
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