02.2013
人形劇批評『マダム・エドワルダ』 21世紀におけるピグマリオンの神話

Photo by 山田泰士
『江戸糸あやつり人形座 マダム・エドワルダ ‐君と俺との唯物論‐』が盛況のうちに幕を下ろした。人形論を交えつつ劇評を述べたい。
それは「バタイユの神」を描くという難事への挑戦だった。バタイユの批判を通じて、「神」という主題から上手く逃れることもできたはずだ。しかし、彼らはそれを良しとしなかった。真っ向から挑んだ。その結果、人形と人間が、西洋と日本が、ノイズとハーモニーが、聖と俗が“錯綜”しながら、一反の狂おしいタペストリーを織り上げるに至った。この記事は、人形だけが宿す、ある種の神秘的な側面にも触れることになるだろう。
本作は原著『マダム・エドワルダ』の朗読と共に劇が進行する。いわば現代版浄瑠璃である。テキストは新訳が用いられたが、もとの内容が観念的・抽象的であるため、耳で聞くだけでは意味を取りこぼしやすい。これが期せずして私たちの意識を「言語」と「音楽」の渚へと連れ出し、バタイユの言葉を借りるならば「宙吊り」にし、多少なりとも理性の埒外へ向かうことを容易にさせる。この点を踏まえた上で、人形遣いへと視点を移したい。
今回の目玉の一つに、江戸糸あやつり人形座の「糸操り」と、黒谷都氏の「手操り」という相反した傀儡子による共演が挙げられる。これが実現した背景には、結城一糸氏によるラブコールがあったそうだ。伝統人形劇による性愛の描写は、襖に隠れるなどの隠喩による以外、直接的にはほとんど行われてこなかった歴史がある。こうした伝統的要素に加えて、「糸操り」という手法自体が肉体的接触に向かない。『マダム・エドワルダ』を遣るには、肉体的接触は不可欠であるため、以前から見知っていた黒谷都氏に声がかかった。黒谷氏にとっては、一糸氏は人形遣いになるきっかけを与えてくれた人であり、断るべくもない。こうして「伝統人形操り」と「現代人形遣い」は舞台上で初となる邂逅を果たした。

Photo by 山田泰士
「糸操り」には、操る者と操られる物との間に、「神‐人」ともいうべき主従関係がある。ロラン・バルトは『表象の帝国』の中で、糸による「操り人形は生命なきものに生命をあらしめる」ものであると述べ、「魂と肉体、原因と結果、原動力と機械、演出家と俳優、宿命と人間、神と被造物」など「対立者のあいだに存在する」「形而上的因果関係」に置かれていると主張する。当劇に登場する人形は、すべてこの「糸操り」によって操作される。ただ一者、自ら「神」と名乗るエドワルダを除いて。
エドワルダは性愛の描写に入ると、「糸操り」から、黒谷都氏の「手操り」による巨大な人形へと置換される。主人公の男の3倍はあろうかという大きな人形は、その対比だけでもある種の超人性を放っているが、2台のコントラバスの響きと相俟って、ほとんど怪物のごとく立ち現れる。この巨大なエドワルダとまぐわうことで、人と人ではない、異種間の交接というイメージが惹起され、原作の異様な陶酔を損なうことなく伝えてくる。
「手操り」における遣い手と人形との身体性は、よりダイレクトな共犯関係にある。人形が快楽にふるえるとき、遣い手もふるえていなければならず、何かを抱くときにさえ、同様の身体動作を繰り出す必要がある。黒谷氏の「手操り」は、ロラン・バルトが文楽について述べた次の文章と無縁ではないだろう。
「≪文楽≫にあっては、操り人形はどんな糸によっても支えられていない。糸がない。したがって、暗喩がなく、神がない。操り人形は被造物を猿真似するのではない。もはや人間は、神の両手のあやつる操り人形ではない。もはや内面は外面を支配しない」
黒谷氏が操る人形が、「神‐人」の関係性を脱却したものであるならば、キリスト教的な神を否定する、もしくは無化する存在としての“バタイユの神”を出現させるにあたって、これ以上ない配役と言えるのではないか。それだけではない。2回ある性愛シーンの内、ラストでは、もはやいかなる「操り」からも解放された、生身の、人間としてのエドワルダが召喚されるのだ。人形が支配する舞台上に、突如として現れる人間エドワルダ。先ほどの「糸操り」の話しを思い出してほしい。人形から見れば、それは“神の顕現”に他ならない。

Photo by 山田泰士
十字架の上で、人間(神)と人形(人)が交わる。絶頂の「叫び」によって“聖なる時間”が分断されると、死の予兆としての「眠り」が等し並みに押し寄せる。終幕の累々と人が倒れ伏す様は、シェイクスピアの悲劇を思わせる絵だった。
原作における神と人の関係性を、人間と人形に置き換えることによって具現化する。これこそは、バタイユの神を「舞台の上に顕現」させる、おそらく唯一の隘路だったのだ。人間は、人形を通じて神へと遡上した。私はここに、21世紀におけるピグマリオンの神話を観た。
無論、これは限定された空間におけるマジックだ。空間を共有したものだけにカタルシスが訪れる。密儀とはそういうものだ。

Photo by 山田泰士
性愛後に投影される映像は、一見するとある種のおふざけようにも見えるが、実は現代における神(の代替)の象徴でもあり、それがことごとく物語を脱臼させる。これほど精緻に、誠実にバタイユを描きながらも、それを真正面から否定することの内には、バタイユとの対峙という以上に、自ら積み上げた積み木の城を打ち壊すことにも似た、ニヒリスティックな快楽がある。バタイユの描き方が甘ければ、作品全体が空疎になりえたかもしれない危うい賭けに、演出家は勝利したと言えよう。
その他にも、ザムザ阿佐ヶ谷という空間が持つ磁場、人形のデザイン、個々の俳優の特質など、歯車という歯車、ピースというピースがかみ合い、ほとんど完璧な舞台が築かれた。いずれか一つが欠けても、本作の美は完成しなかった。本作に関わった誰もが、その歴史的意義を感じとっていた。改善の余地はあるにせよ、私はこれを傑作と呼ぶことに躊躇しない。
今回の観劇で、人形の持つ神秘にさらに深く分け入らなければならないとの思いを一層強くした。また本作で演出助手を務めたピーチャムカンパニーの川口氏とのやりとりによって『マダム・エドワルダ』の新しい解釈も浮かび上がってきた。三島由紀夫の『金閣寺』が鍵となる。こちらも含め、追って報告したい。
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18.2012
『人形と彫刻の違い』 意味の欠如と空洞性

恵那文楽の奉納の様子(恵那山ねっとより)
『日本と西洋の肉体表象』シリーズで「彫刻」に触れてきたので、今回は彫刻・彫像と人形の違いについて書きます。
この両者の違いについて言明している人は少ないように見えます。
あったとしても抽象的な話しに終始していたり、はたまた両者に区別はないと言い切る人もいます。
「評/論」というにはあまりに明晰さを欠いています。
現代は一億総評論家時代と言われていますが、発言の機会が増えただけで水準は変わっていないように思えます。
人形と彫刻、両者には明確な違いがあります。


左:姉さま人形 右:ミロのヴィーナス
先に結論だけ言っておきましょう。
人形とは顔(眼・睫毛・鼻・口・髪・表情など)・衣裳・手・足などの末端こそが命であり、極論この末端さえあれば成立します。
つまり細部(デタイユ)の集積なのです。
その意味において非常に日本的な造形芸術と言えるかもしれません。
末端をすべて失ってなお存立するトルソとはまったくの逆、末端を失ってしまえば人形には何も残りません。
上の姉さま人形などはまさにそれを表していて、衣裳の中は何もない「空洞」なのです。
ですが細部(デタイユ)は仏像などにも見受けられる特徴であり、これだけをもって「彫刻」と「人形」を区別することはできません。
人形が人形と名付けられ、彫刻ではない以上、明確な違いがなければなりません。
一切の彫刻と隔絶する要因。
それが「意味の有無」です。

雛人形の胴部分。肉体というものが閑却されていることが分る。

雛人形全体。彫刻のような写実的な肉体描写ではなく、細密な末端描写(顔・手・衣裳)によって成立している。
彫刻、とりわけ彫像が作られる際、「意味」は不可欠です。
古代ギリシア・ローマ彫刻などは、神々の特性が彫刻に意味を与えました。
例えばアポロ像であれば、太陽・理性・均整・調和・音楽・医術・不滅などの諸特性が、彫刻そのものに意味を付加します。
古代彫刻のみに限らず、近代彫刻の父祖であるロダンの彫刻にも意味が含有されています。
もちろん日本の仏像においても同じこと、それぞれ固有の意味を持っています。
すべての彫刻には、あらかじめ「意味」が与えられているのです。
これは彫刻だけではなく、絵画や舞踊なども同様です。
「芸術」と呼ばれるものには、何かしら特有の「意味」が内包されているのです。
(鑑賞者が意味を読み取れるか否かは別問題ですが)

ガルニエ宮・オペラ座のアポロン像
彫刻における意味とは、多くの場合、宗教的・政治的・哲学的なテーマから出発します。
残念ながら、この三点はいずれも日本人が最も不得意とする分野です。
忘れてはなりませんが、仏教も外来の宗教です。
純国産の神道が神像が造らなかったことは、決して偶然ではありません。
日本の場合は、世界のアートシーンと比較してみると、芸術家というよりも職人、美術品というよりも工芸品に近いような気がします。
話しが逸れました。
人形と彫刻の違いは、意味の有無です。
彫刻には「意味」があります。
そうです。
人形には「意味」が欠落しているのです。


フランス人形
意味がないからこそ持ち主が名前を付け、愛玩し、自由に内面のキャラクターを形作ることができます。
他の芸術作品のようにパブリックなものではなく、人形はプライベートなものです。
他の彫刻・彫像のように、特別な思想・特別な瞬間を永遠に刻むことを目的としてはいません。
フランス人形などを見ても分かりますが、非常に類型的な様式を持ち、関節が動き、自由に姿勢を変化させることによって、より持ち主の思考を反映・投影させる作りになっています。
こうして同じ時間の共有が可能になるのです。
彫刻・彫像は、決して同じ時間を共有しません。
それぞれ独自の時間の中に、半永久的に留まります。
人形がその時計の針を止めるのは、持ち主から忘れ去られたとき。
それまでは同じ時を共有するのです。
プライベート性、時間の共有、意味の欠落、これらが人形の諸要素であり、彫刻との最大の相違ポイントです。


日本人形
神社仏閣で人形供養が盛んにおこなわれていることは、当研究所の論説を裏付けています。
googleで「人形」というキーワードを入れスペースを打つと、検索補助にまっさきに出てくるキーワードは「供養」です。
中身(意味)がないから取り憑くのです。
ヘラクレス像に霊が取り憑いたなどという話しは聞いたことがありません。
これは人形の「容器的」な側面をあらわしています。
「意味」を持たないことを、別の言い方にたとえるなら、「魂」を持たないとも言えるのではないでしょうか。
「魂」を与えるのは、持ち主の想いなのです。

恋月姫作・球体関節人形
「意味がない」ことと「無垢」であることは同義的な関係です。
「少女と人形」が密接に結びついている理由はここにあります。
人形は日本的な造形芸術であると上記に書きましたが、それは現代に入って凄まじい異形の花を咲かせることになります。
次回は「球体関節人形」について、日本におけるその奇形性と美を比較検証していきます。
お楽しみに。
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