03.2012
『ティック・クアン・ドックの焼身供養』 仏教における自殺と普遍的意義

Photo by Malcolm Browne『Thích Quảng Đức(ティック・クアン・ドック)』
いやはや凄い世相になりました。
中国の船舶問題。
領土問題に端を発し、本当に乱世の様相を呈してきましたが、これはまだほんの序の口でしょう。
いよいよこれからが地獄の窯開き。
私たちが長年溜めこんだツケを支払う時が来たのかもしれません。
ここら辺であらためて当研究所の基本的スタンスをお伝えしたいと思います。
当研究所の理念は所長挨拶でも述べているように、「あらゆるカルチャーを横断しながら美の源泉を探り、広く世に伝播することで人類の文化活動に貢献すること」です。
“日本”という名称を冠していることから、我が国の美術にも積極的に焦点を当て、その本質を探りだし、延いてはその文化的価値を高めることも重要命題です。
こうした審美的な活動の性質上、当研究所は、いかなる政治活動にも関せず、いかなる政治組織にも与しません。
そうした瞬間、美は他のなにものかに隷属してしまうからです。
どのような束縛も禁圧も美にとっては敵です。
そして美は、常にそれを超え出て勝利するものだと信じています。
この考えは、命こそ最も大切だとする戦後日本の「生命至上主義」とは相いれない立場です。
何に最高の価値を置くのか。
美を至上の価値に据えるのなら、必然的に生命の価値はその下に位置します。
だからと言って、生命をないがしろにするわけではありません。
生命は貴(とうと)いことを前提としたうえで、なおそれ以上の価値を人間性の中に見出したいのです。

美の究極は、決して「美」という言葉では収まらないものだと思っています。
言語化不可能なものと知りつつ、ジョルジュ・バタイユは、それを「聖なるもの」と名付けました。
「聖なるもの」と接した時、人は忘我の内に沈黙するか、溜息、叫び、喘ぎ、呻き、これら意味をなさない感嘆詞だけしか洩らせません。
意味のある言葉が形成されるのは、感動と慄きが去った後のこと、「聖なるもの」が消え去った後にようよう言葉を紡ぐことができるのです。
「聖なるもの」は一瞬だけ現れ、決して持続しない。
それはまぎれもなく、人間が人間を超え出る瞬間に生起されるものなのです。
ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức,1897~1963)師の焼身自殺は、まさにこの「聖なるもの」を私たちに突きつけます。
ベトナム共和国初代大統領ゴ・ディン・ジエム(在任1955~1963)は熱烈なカトリック教徒でした。
政権獲得後、彼はカトリック中心主義を推進し、将校や官僚のトップにカトリック教徒を据え、さらに土地政策や税制面でもカトリックを優遇します。
1959年には、南ベトナムを聖母マリアに捧げることを宣言、カトリック教会が国で最大の地主となり、公的な催しにはバチカン国旗が掲揚されました。
人口の大半を占めていた仏教徒は、仏旗の掲揚を禁止され、活動の抑圧、宗教差別を受けるようになり、これに反発して反政府活動を開始。
1963年、ジエム政権は戒厳令を布告すると、各地の仏教寺院を襲撃して僧たちを連行します。
仏教への弾圧はヒートアップし、抗議した民衆が射殺されるまでになりました。
こうした最中、ベトナムの高僧ティック・クアン・ドック師は、自ら炎を纏うのです。

仏教というと何となく戒律が緩いイメージがあるかもしれませんが、ティック・クアン・ドック氏が属したベトナムの臨済宗における戒律は甚だ厳しく、僧であるからには妻帯肉食も不可です。(還俗することはいつでも可能です)
また仏教徒が守るべき五つの戒律「五戒」には、生き物の殺害を禁じる「不殺生戒」も含まれています。
こうした厳しい戒律にあって、なぜティック・クアン・ドック師は焼身自殺を敢行したのか、それは禁忌ではないのか。
法華経薬王菩薩本事品二十三に収められた薬王菩薩の故事にヒントがあります。
「即ち諸の香・栴檀・薫陸・兜楼婆・畢力迦・沈水・膠香を服し、又瞻蔔・諸の華香油を飲むこと千二百歳を満じ已って、香油を身に塗り、日月浄明徳仏の前に於て、天の宝衣を以て自ら身に纏い已って、諸の香油を潅ぎ、神通力の願を以て自ら身を燃して、光明遍く八十億恒河沙の世界を照す」
「其の中の諸仏、同時に讃めて言わく、善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名く。若し華・香・瓔珞・焼香・抹香・塗香・天繒・幡蓋及び海此岸の栴檀の香、是の如き等の種々の諸物を以て供養すとも、及ぶこと能わざる所なり。仮使国城・妻子をもって布施すとも、亦及ばざる所なり。善男子、是れを第一の施と名く。諸の施の中に於て最尊最上なり、法を以て諸の如来を供養するが故にと」
要約:薬王菩薩の前世である一切衆生憙見菩薩は、仏を供養するために香を飲み、宝衣にも香油を注いで身にまとい、自らを焼身して遍(あまね)く世界を照らした。諸仏はそれを褒めえ讃え、「これが真の精進であり、如来を供養する真の法である」と言った。仮に城や王妃・王子を布施しようとも及ぶものではない。これこそ第一の布施であり、最も尊い方法だ。それは「法」による供養なのだ。

重要文化財『薬王菩薩立像』(1202)奈良・興福寺蔵
仏教徒の焼身自殺はこの薬王菩薩の故事に基いてなされ、歴史的に見ても複数の例があり、いずれも禁忌とはみなされませんでした。
日本における焼身供養の最古の例は紀伊熊野那智山の僧、応照とされています。
ティック・クアン・ドック師の焼身も同様の故事に基くことに疑いの余地はありません。
それは厳然たる宗教行為であり、政治行為とみなすのは誤りです。
焼身自殺は英語で「Self-immolation(生贄)」と綴られます。
己を犠牲として神仏に捧げるという“絶対的な帰依”そのものの内に、仏教弾圧への批判が含まれているのです。
冒頭に掲げた写真はその瞬間を切り取ったもので、世界報道写真コンテストでグランプリを受賞しました。
仏典には焼身供養のみならず、その他いくつか自決に関する故事があります。
例えば、釈迦の前世である薩埵王子が、崖下の餓えた虎の親子を憐れみ、崖から飛び降りてその身を虎に与える捨身飼虎(しゃしんしこ)と呼ばれる『金光明経』の故事や、一時的な悟りを6回繰り返したゴーディカが、7回目の悟りに至って自決し、永遠の悟りを啓いた『雑阿含経』の故事など。
仏教における自決は、徹頭徹尾禁止されているわけではなく、利他的な動機に基いていたり、悟りを真摯に追い求めた結果など、動機や結果によっては讃えられるケースもあるようです。
その他の自死については、盲目の亀が流木の穴に入ることが極めて稀なように、人間として生まれてくることは貴重なことなので、自ら命を断てば来世はより苦しい状況で生まれてくるという内容が『雑阿含経』に記されています。(四字熟語の「盲亀浮木」はこの故事から来ています)
言うまでもありませんが、焼身にしろ他の方法にしろ、宗派によって解釈は異なり、誰にでも当てはまるものではなく、また自殺を肯定するものではないことをご理解ください。

作者不明『捨身飼虎図』法隆寺蔵
己の命はかけがえのない貴重なものです。
それは考えるまでもなく、本能的に誰もが分かっていることです。
にもかかわらず、生命至上主義者の「命が一番大事! 死ぬヤツは馬鹿!」という言葉には、なぜ卑しさが付きまとうのか、「お金が一番大事!」という言葉を聞いたときと同じような、何か下卑たもの感じるのは一体なぜなのか。
私たちは、おそらく知っているのです。
お金よりも、そして命よりも、貴重なものが存在しうることを。
かけがえのない己の命よりも、さらに尊いものがあることを。
しかし、それを証明するためには、自らの命を賭けなければならない。
これは一種の英雄的行為であり、誰にでもできることではないでしょう。
この英雄的行為が自分にはできないことを知りつつ、それを肯定するために己の命を擲った者を否定して嘲笑する、だからこそ生命至上主義者の言葉には卑しさが拭えないのです。
命を賭ける機会は一生の間に一度も訪れないかもしれませんが、覚悟だけは持っていなければならない。
自分にその覚悟ないからといって、過去に誰かが命を賭けて守ろうとしたものの価値を貶め、その身を挺した行為を嘲笑うことは、醜いと言わざるをえません。
ジエム大統領の義妹マダム・ヌーはティック・クアン・ドック師の焼身を「ただの人間バーベキュー」だと述べて批判を浴びました。
皆さんにはどのように見えるでしょうか。
ちなみに、ティック・クアン・ドック師が命を絶った同じ年に、ジエム大統領はクーデターにより射殺され、マダム・ヌー夫妻は国外に亡命しています。

焼身自殺は自殺の中でも極めて苦しみを伴う方法として知られています。
体液は沸騰し、睾丸は爛壊し、膨張した眼球は破裂します。
何よりも肺と気管が焼かれて呼吸ができない。
通常であれば、走り回り、転げ回り、雄叫びを上げるはずです。
それにもかかわらずティック・クアン・ドック師は結跏趺坐のまま不動を貫く。
身じろぎひとつせず、一言も発せず、叫びはおろか微かな呻きすら洩らしません。
完全なる静謐の中でその身を刻々と供するのです。
あまりに現実離れした光景。
全身を包む火炎は、さながら如来の光背のごとくに燃え上がり、その周囲を遍く照らし、師を取り囲む僧たちは額(ぬか)ずき……
最後にお見せする映像には、まぎれもなく言語化不可能な「聖なるもの」が捉えられています。
誰をも傷つけず、ただ己一人の命をもって犠牲に供す、その一部始終を収めた稀有なフィルムと言えるでしょう。
焼身という極限状態にあって不動と沈黙を貫いたことで、仏教の至上の精神性までも体現しているように思えます。
かけがえのない命を捧げる。
だからこそ犠牲は貴く、貴いからこそ神聖なのです。
記事に掲載した写真を見れば、ティック・クアン・ドック師がベトナム国内でどれほどの尊崇を受けているかが分かります。
一点明記しておかなければならないことは、現在、チベット及びチベット僧に対する弾圧・虐殺・人権侵害がベトナムとは別の形で問題化しているということです。
この問題は、おそらく私たちが直面している問題と同一線上のものでしょう。
人間がなしうる行為の一つの究極に位置する師の焼身が、あらゆる弾圧から仏法を守護し、延いては衆生の苦しみを解放するもであるならば、状況は違えども普遍的な意味を持つはずです。
その願いを込めて。
※当記事は自殺を助長するものではありません。危険ですので映像のマネはしないで下さい。
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『般若心経 新訳』 ブッダがロックに蘇る!

日本で最も有名な経典『般若心経』
600巻を超える大乗仏教の経典「大般若経」のエッセンスが、わずか300字内に凝集されています。
悟りを啓いた釈迦の教えは脈々と残されていますが、何せ経典が成立したのは2000年以上昔の古代インド。
中には、その真意を計りかねるものもあります。
そこで、その時代ごとの様々な高僧・専門家が経典の注釈を記してきました。
空海・最澄も『般若心経』の注釈を残しています。
仏教が生・老・病・死という人生の「四苦」からの超越を説くからには、少なからず現代にも通じる思想だと言えます。
以下の『般若心経 新訳』は、ある動画サイトに投稿された作者不詳の訳文です。
そのロック風のカジュアルな文体から、投降後一年以上たった現在でも、多くの人の手によって転載されつづけています。
新訳、というよりも超訳と言ったほうが近いかもしれません。
「時代を越える」
この言葉の意味を、深く深く考えさせる文章です。
『般若心経 新訳』
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
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この世は空しいモンだ、
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この世は変わり行くモンだ。
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汚れることもありゃ背負い込む事だってある
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見えてるものにこだわるな。
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味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。
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辛いモノを見ないようにするのは難しい。
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先の事は誰にも見えねぇ。
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正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。
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愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。
勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。
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この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。
嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。
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心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。
いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』
心配すんな。大丈夫だ。
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